タレカツ丼とソースカツ丼の金メダル争い

 何を隠そう赤羽彦作村長は麺類ばかりでなく、カツ丼にも目がない。中でも、ソースカツ丼の大ファンである。というより、普通のカツ丼よりB級という観点から見ても、こっちのほうが好きである。
宮仕え時代にはソースカツ丼食いたさに、都内のあちこちを歩き回った。ところが、とんかつ屋は星の数ほどあるのに、ソースカツ丼を出している店はまずなかった。

村民2号の故郷でもある群馬・桐生市は、日本でも有数の「ソースカツ丼」のメッカで、中でも「志多美屋本店」は村長の好みだった。村長の故郷でもある会津藩も日本有数のメッカで、人気店「中島」にはよく通った。

それなのに、東京はカツ丼といえば「卵とじカツ丼」が当たり前で、ソースカツ丼などは「想像外」の代物という反応が多かった。
5年ほど前に、水道橋周辺を散歩中に偶然、「新潟カツ丼 タレカツ」を発見、まるで「金メダル」でも取ったように跳び上がって喜び、昼飯を食ったばかりなのに暖簾をくぐり、賞味した。

新潟カツ丼は厳密に言えば、ソースカツ丼ではなく、タレカツ丼に属する。ベースにソースではなくしょう油を使う。さらに、ご飯とトンカツの間にキャベツは入れない。水道橋の店はヒレカツを使い、しょう油ベースの甘めのタレにくぐらせたもの。これが、実ににうまかった。

ここ数年で、都内でも、ソースカツ丼やタレカツ丼をメニューに出す店が少しずつだが、増えてきている。ようやく東京人もカツ丼が卵とじだけではないぞ、ということに気づき始めたのである。それは「多様なウマズイ」を標榜する彦作村長にとってもうれしいトレンドである。

首都圏の北に位置する東北自動車道下りの羽生PA「パサール羽生」は、2009年11月にリニューアルして、東北道の中でも那須高原PAと並んで利用者数が多い。その中に「丼専門店 どんぶり道場」がある。卵とじ丼や名古屋の味噌カツ丼と並んでタレカツ丼とソースカツ丼もある。村長はソースカツ丼やタレカツ丼が食いたくなると、ここに短い足を運ぶ。何より安いのがいいし、満足感も結構ある。


         どんぶり道場・タレカツ丼 


そこで、村長は「秘伝のたれかつどんぶり」(並590円)を注文した。美熟女の村民2号は負けじと「会津ソースかつどんぶり」(並690円)を注文。村長より100円も高いのが気にくわなかったが、勘定は感情に影響しやすい。怒りを押し殺して、ドンブリ対決を楽しむことにした。別にみそ汁(100円)も付けた。

この100円の違いとは何か? 冷静に分析した結果、キャベツの有無だけとしか思えない。白ごまもかかってはいるが、それは愛嬌みたいなものである。

タレカツ丼は、まさに新潟カツ丼で、キャベツなどという邪魔なものは入れない。しょう油ベースの甘いタレをくぐったヒレカツが「早く食べて」とささやく。肉があまり厚くないというのも新潟カツ丼の特徴で、やみくもに厚いカツよりも、品があるし、健康にもいい。値段にもいい。

タレはご飯にも多めにかかっていて、揚げたてのヒレカツとともに、口の中に運ぶと、幸せ感がジュワジュワと広がってくる。ちょこんと乗った沢庵が「冷静」を取り戻すのに役立っている。


         どんぶり道場・ソースカツ丼 


「ソースカツ丼のほうがピリッと自己主張していて、私はこっちの方が好き。タレカツ丼は何だかポワーンとしていて、立場をはっきりさせない人みたいでイヤ」
村民2号の自己主張もソースカツ丼並みではないのか?

「いやいや、そのポワーンがいいんだよ。それが文化というものだ。ソースよりしょう油。それに100円安いというのもポイントが大きい。判定でタレカツ丼の勝ちだよ」
村長も応戦する。

ロンドン五輪の柔道には引き分けがないが、カツ丼対決には引き分けがあってもいい。松本薫状態になった村民2号だが、寝技に持ち込めば、村長にも勝ち目はあるかもしれない。しかし、引き分けが村の平和のためになることだってある。彦作村長は心の底で、金メダルよりも100円玉メダルが欲しかったのだが。



本日の大金言。

カツ丼がいつもカツとは限らない。勝者に拍手はいらない。敗者にこそ拍手を。
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村犬チャイ君、天国の特派員を命ずる

 ロンドンオリンピックが盛り上がる中、悲しい知らせをしなければならない。
ウマズイめんくい村のアイドル犬でもあり、彦作村長と一緒に鼻をひくひくさせて「うまいもの探し」の諜報活動も行っていたチャイが、7月27日午後2時46分、ついに帰らぬ犬となった。

               ちゃい③ 

直接の死因は「いろんなものがいっぺんに来たけど、胃のあたりにガンがあり、それが腎不全と合併したのでは?」とヤギ先生。11歳と6か月。オス、雑種。短いと言えば短い、長いと言えば長い人生、いや犬生だった。

6月に入ってから急に動きが鈍くなって、ちょっと前まではあんなに元気で病気知らずだったのに、まるで100歳の老人にでもなってしまったような変化だった。ヤギ先生の病院に何度も通い、東京に出稼ぎに出ていたキオがお見舞いに駆けつけたときなどは急に元気を回復、一時は「奇跡が起きるかもしれないぞ」と思われたが、7月に入ってからは、食欲もガックリ落ち、20日過ぎたあたりからはすべての食事を受け付けなくなった。

それでも最後の最後まで、大好きだった散歩には出たがり、村長が「チャイ、散歩行くか?」と言うと、最後の力を振り絞るようにヨロヨロと立ち上がろうとする。村長と美熟女の村民2号はチャイを抱きかかえて、いつもの散歩コースだった「イチョウ公園」や「さくら公園」に出る。体が次第に動かなくなり16キロあった体重もみるみる10キロを割りこんだ。

              ちゃい② 

不思議なことに、時折見せた苦しそうな表情も次第に減っていき、まるで生命が純化するかのように、目も顔もきれいに穏やかになっていく。最後の1週間などは、「チャイ、がんばれ」と励ますこちらが逆に「村長たちこそがんばれ」と言われているようだった。

それでも、最後の2日間は、村長と村民2号が側から離れると、「クーン」と鳴いた。息を引き取る寸前にはペロペロと水も飲んだ。その瞬間は、村長も村民2号も気が付かないほど、自然な引き際だった。
ある時はおバカな、ある時は実にかわいい、またある時は村長よりも頭がよさそうな、ひと言では言い表せないほどの宝を残してくれた。

事態を察知した京都にお住いの調布先生は「一緒に散歩に行ったとき、公園でウンチをしまくったあの元気な姿が忘れられない」と弔電をくれた。等々力夫人は「チャイちゃんは、きっと星になったのね」と弔辞を述べてくれた。

今年4月に社会人になったキオは、
激務の合間を縫って東京から「最後のお別れに行ってよかった。チャイ、天国でチョメと仲よく遊んでね」とメッセージを寄せた。

チョメとはチャイを飼う前に16歳で星になった赤トラの猫である。チョメが死んだのは13年前の7月28日だった。チャイと1日違いの命日で、村民2号は「チョメが呼んだのかなあ」と不思議がる。

亡くなった翌日の28日には、ペット葬儀屋さんが出張してくれて火葬。そして、きのう29日。チャイが元気な時に走り回った庭に遺骨を埋葬した。葬儀屋さんが「相当な病気だったんですねえ」と驚くほど小さな骨だった。合掌。

         ちゃい① 

さて、悲しんでばかりいる場合ではない。ウマズイめんくい村村長・赤羽彦作として、天国に行ってしまった村犬チャイ君に「辞令」を出さなければならない。


 辞令

チャイ殿、キミを「ウマズイめんくい村天国支局」の特派員に任命する。天国から、地上のうまいもの探しに協力するように。遊んでばかりいると、減俸もあることを忘れないでもらいたい。

                              
                          ウマズイめんくい村初代村長
                                   赤羽彦作

                                                       
                                平成24年7月30日


                               ちゃい③ 
                                                    

花火を仰ぎ見ながら向島で徳太楼のきんつば

 今日7月28日(土)は「隅田川花火大会」である。毎年7月の最終土曜日に開催されている。この隅田川花火にはさまざまな思い出がある。今回は「向島の料亭」「徳太楼のきんつば」、そのふたつについてさり気なく書いてしまおう。


         徳太楼② 


彦作村長がまだ宮仕えだったころ、それはかのエンターテインメント新聞社時代。作家や連載物も担当していた。時代小説家の早乙女貢さんもその一人。早乙女さんはお会いするときはいつも和服姿で、夏は着流しだった。着こなしや立ち姿が自然体で、あの瀬戸内寂聴さんが月刊文芸春秋で渡辺淳一さんと対談した際に「和服がよくお似合いの作家と言えば、渡辺淳一さんと早乙女貢さん」と話していたほど、和服を上手に着こなしていた。

その早乙女さんを毎年隅田川花火大会の日に、暑気払いもかねて向島のとある料亭で接待していた。それも彦作村長の宮仕え時代の大事な仕事だった。酒席での早乙女さんは実に洒脱だった。尊大で偉ぶったところがなく、その場を、軽妙なジョークで笑いに誘う。話の内容は多岐にわたり、その場にいた大殿やご家老ばかりでなく、若いきれいな芸者さんたちまでを引きこんでしまう。

今から4年前の2008年7月26日(土)の隅田川花火大会。その日はいつもと違った。身だしなみがすっきりしていて、泰然としていた早乙女さんが、この日はかなり疲れているようだった。小粋な浴衣姿だったが、どこかよれていた。それでも話し方や内容はいつものように洒脱だった。料亭の屋上で夜空に向かって打ち上げられる花火。それを見上げる早乙女さん・・・。彦作村長の心に何か引っかかるものを感じた。

早乙女さんはその年の12月23日、胃がんで亡くなった。82歳だった「ボクはねえ、最低でも100歳までは生きるよ。連載のことは心配するな、ハハハハ」そう言っていたが、年齢を感じさせない頭脳と軽やかな足腰。彦作村長は、本当に100歳まで現役というのも「この先生ならありうる」そう思っていた。

それが、この年の晩秋に胃の検査で入院。12月に入って、バタバタと容体が悪化していった。胃潰瘍がやがて胃がんとなり、ついには亡くなってしまった。後でわかったことだが、早乙女さんは最愛の奥さんを7月20日前後に亡くしていた。早乙女さんにはお子さんがなく、ご本人もおっしゃっていたことだが、天涯孤独ということもあったのだろうか、誰にも連絡せずに、一人で奥さんの葬儀を執り行ったという。

彦作村長は驚いた。7月26日、料亭で隅田川花火大会を見たときにはすでに奥さんを亡くしていたことになる。そんな大変なことをおくびにも出さずに、隅田川の夜空に打ち上がった花火を見ていたのである。そのときの早乙女さんの心情を知ることはできないが、心のどこかに切ないものが残る。

あれほど華やかな人脈を持っていて、交友も楽しんでいた文壇の大御所の一人でもある作家が誰にも言わずに死と向き合う。後でそのことを知った大殿が、その数か月後になる早乙女さんの孤独な死を悼みながら、「作家の魂はすごいね。永井荷風の最後みたいだ」と話していた。

その向島の料亭でお土産として、女将がいつも用意していたのが、「長命寺の桜餅」だった。

だが、たまに「徳太楼のきんつば」ということもあった。彦作村長は「徳太楼」のきんつばを初めて見て、賞味した時の衝撃を忘れることはできない。10年ほど前のその料亭の席で、デザートの一つとして出された。女将が、「このきんつばはお酒の肴にもいいんですよ。甘さは控えめだし、小豆がとってもおいしい。どうぞ、召し上がれ」そう言って、20個入りの箱を開けた。そこには、見事な乳白色の薄い皮に包まれた四角いきんつばが整然と並んでいた。中にうっすらと小倉あんが透けて見える。

黒文字で口に入れると、うっすらとした品のいい甘さの小豆が、舌の上で、さわやかな涼風となる。見た目の美しさとさりげない、奥深い味わい。彦作村長はこれまで金沢・中田屋のきんつばをはじめ、あちこちのきんつばを食べてきたが、「これは最高峰ではないか」実感としてそう思った。あまり食べない早乙女さんもおいしそうに食べていた。

その徳太楼に久しぶりに足を運んだ。創業は明治36年(1904年)。浅草3丁目の目立たない場所でこじんまりと営業している。金沢・中田屋のように大きく支店を広げることもなく、宣伝もほとんどしていない。先日、京都の「亀末廣」をご紹介したが、基本的なスタンスは共通のものがあると思う(亀末廣ほど徹底はしていないが)。


         徳太楼① 


そこで、8個入り(1個130円)を買って、村に帰ってから、美熟女の村民2号と渋茶を飲みながら賞味した。江戸の小粋な包みを開けると、そこにあの美しい、見事な世界が詰まっていた。味はそう変わってはいない。甘みをかなり抑えたいい味だった。しかし、最初の感動はなかった。その間、様々な出来事が身辺に起こった。そうした自身の変化のためか、それとも職人が変わったのか、そのあたりはよくわからない。最高級のうまさなのに、何かが違う。


          徳太楼③ 


隅田川の夜空に一瞬の夢が花開く。「美よ、止まれ」と誰かが言ったが、美は止まらない。向島で見たあのときの花火は二度見ることはできない。

今日も猛暑の中、隅田川の花火が打ち上げられる。去年は3.11で開催が危ぶまれたが、石原都知事と猪瀬副知事の決断もあって、8月27日に日程を変更して開催された。元々が享保17年(1732年)に発生した大飢饉とコレラによる死者を弔うために翌年7月に始まった両国の花火大会。当時はせいぜい20発前後だったらしいが、今では2万発以上の規模となっている。観客も100万人規模に膨れ上がり、周辺は「一夜の夢」を求めて大混雑する。

「鍵屋~」「玉屋~」という掛け声は今でも聞かれる。100万の掛け声とため息が隅田川沿いにこだまする。彦作村長と村民2号はその中に「チャイ!」という掛け声を入れようと思う。

夜空に向かって、鍵屋~、玉屋~、男一匹、犬一匹、チャ~イ~!




本日の大金言。

人生と打ち上げ花火は似ている。誠に人生は一瞬の夢・・・だから、人は無意識のうちに花火に人生を託し、感動するのかもしれない。

         徳太楼⑦
 

吉田麻也と徳永悠平と小倉アイスの三角関係

 一昨日はなでしこ、昨夜はサムライジャパン。不況、原発、オスプレイ・・・苛立つことがあまりにも多く、東日本大震災以来、日本の辞書から、「快哉(かいさい)」という言葉が消えていたが、この2日間は違った。イギリスから生中継されるサッカーに猛暑の列島が息を飲み、手に汗を握り、最後には「やった!」と快哉を叫ぶ。そういう人が多かったのではないか。興奮して眠れず。会社勤めのサラリーマン、OLなどは今日は仕事にならないのではないか。

「こうした閉塞的な時代状況は危ないな。マッチ一本火事の元、じゃよ。悪い連中が何かを企んどる」
心配性の文吾ジイが、木陰のベンチでつぶやいている。

そんな心配とはまったく無関係に、昨夜のウマズイめんくい村はエキサイトしていた。村のアイドル犬・チャイが必死に闘病しているというのに、この村はどこかヘン。

「行け行けーっ、永井! 何やってんだー、またははずしやがって~」
テレビの前で、美熟女の村民2号が、女をかなぐり捨てて、絶叫する。スペイン相手に大津のゴールで1点先取、その後は再三決定的なシュートチャンスを逃し続ける日本。
彦作村長の戦前の予想では、日本は0-2で負け、と出ていた。実力差を考えると、最高にうまくいって引き分け。それが、違った。あり得ないことが目の前で展開している。
「そこだそこだ、酒井! 回し蹴りだ、回し蹴り!スペインのパエリア野郎なんて潰しちまえ!
彦作村長も缶ビールを飲み飲み、柿の種を放り込んでは、サッカーを格闘技と勘違いしてるみたいに絶叫する。
「ドロップキックで行けー!斎藤、そこはパスじゃない、コブラツイストだろ!」

で、ハラハラドキドキしながら終わってみれば、戦前の予想を覆して0-1の勝利。
「やった、やった!」
選手でもないのに、一試合終えたようなすっきりした顔で、村長と村民2号は手を取り合った。
「今日のヒーローは大津と清武かなあ。永井もよかったけど、あれだけ外しちゃうとなあ」
と村長。
「全員よ、全員の意識がすごかった。このチームはダメかと思っていたけど、やればできる。最後は気持ちよね」
村民2号が、まるで解説者のようなことを言う。
「ちょっと待てよ。ディフェンダー陣の踏ん張りも付け加えたいなあ。特にオーバーエイジの吉田と徳永。0点に抑えたというのも凄い。影のMVPだよ」
「それは言える。特にアタシの好みは吉田麻也。小倉アイスみたいな人よね。地味だけど、ここというときに頼りになる。村長の対極ね」

一夜明けた本日。猛暑がまた始まった。先日は「氷あずき」を取り上げたが、猛暑の救世主として、忘れてはならないのが「小倉アイスさま」である。
「ああ、暑くて死にそうだ。もうダメだ」というときに、危険を察知して、さっと横から体を入れてボールを奪う。氷あずきがイチローなら、小倉アイスは吉田麻也と言えないこともない。(このあたりはかなり強引である)。

彦作村長は東京・湯島にある甘味屋「みつばち本店」の小倉アイスのファン。大昔に池之端に下宿していたころに、よく通った。
小倉アイスは、この「みつばち」が元祖だ。大正4年、余った小豆をたまたまアイスクリームの桶に入れておいたところ、偶然にも「飛び切りにうまいアイス」、つまり「小倉アイス」が誕生したという。傑作は偶然生まれる。しかし、そこから、一つの形にするのは「天才的なひらめき」が必要である。小倉アイスは今では全国に存在する夏の定番だ。地味ではあるが、日本の夏になくてはならないものとなっている。

彦作村長は、久しぶりに江戸の浅草に出かけた際に仲見世にある老舗の「梅園」に足を運んだ。氷あずきにしようか小倉アイスにしようか、1分ほど悩んだが、財政事情を考えて、「小倉アイス」(220円)を選んだ。

「氷あずきは店内で食べれますけど、小倉アイスは外でお願いします」

無愛想な女店員のひと言も、小倉アイスに深いシンパシーを感じさせた。


               桜園・小倉アイス① 


赤い番傘と緋毛氈(ひもうせん)に座って、小倉アイスにかじりつく。最中が柔らかすぎる。これはイカン。小倉アイス自体は「みつばち」には敵わないが、甘さ控えめでまずまず。小倉の存在をもっと出した方がいいと思うが、200円なので、あまり多くを求めてはいけない。(みつばちは300円と少々高め)。

小倉アイスには2つのタイプがある。みつばちや梅園のように小倉をアイスクリームの中に練り込んだもの、男女関係に置き換えると長くて抜き差しならない深い付き合い。夫婦とか訳ありのカップル型。もう一つはアイスと小倉が別々に最中の中で寄り添っているもの。まだ結婚までは行っていない恋人型だ。

その「恋人型小倉アイス」の代表格がここ数年、北関東でファンが増えている「茶寮 かめ福」の小倉アイス(200円)。ここは鯛焼きが絶品だが、今回は小倉アイスを取り上げてみた。最中がパリパリしているのがいい。アイスクリームは可もなく不可もなくだが、下で寄り添っている小倉あんがいい。使っているのは、北海道十勝産小豆。鯛焼きもそうだが、甘さ控えめで、これだけいい食感と味わいの小倉あんは、値段も含めてそうはない。


         つる亀・アイス最中 


35度を超える猛暑の中、二つの小倉アイスを賞味し終えた彦作村長。愛用のオンボロ自転車に跳び乗ると、月光仮面気取りで、どこかへと去って行った。「シオタもいいが、やっぱりオグラが必要だな」などと妙なことをつぶやきながら。チャイは大丈夫だろうか?


本日の大金言。

小倉アイスが甘味界の吉田麻也なら、徳永悠平はサッカー界の冷やしぜんざいである。若い選手の興奮を冷やして、敵に甘いトラップをかけ、最後にはゼンザイ(サン)を奪ってしまう。この甘い三角関係が勝利のカギとなる。

ソバ界の大異端「角萬の冷や肉」を13年ぶりに食らう

 地下鉄日比谷線・三ノ輪駅の改札口を出る。カッと照りつける太陽の下を彦作村長が浅草方面へトボトボと歩く。手打ちそば「角萬」に行くには、このトボトボが欠かせない。

村長が初めて「角萬」に行ったのは、約13年ほど前。吉行淳之介や野坂昭如といった戦後を代表する「異端の作家」と交流を持ち、野坂昭如の「エロ事師」のモデルともいわれた粋人・吉村平吉さんが、ある会の主催で「吉原を案内してくれる」という。彦作村長にも声がかかって、参加した。30人近く参加していたように記憶している。小雨が降っていた。すっかりさびれた吉原を歩いた後、「角萬」へと流れ込んだ。

吉村さんは平成17年(2005年)3月に84歳で亡くなっているから、この時70を超えていたはずだ。「この人が吉村平吉か」。70年代から80年代にかけて、「話の特集」や「面白半分」などで、主に風俗エッセイを書いていた。ナマの吉村平吉さんは、年齢的なものもあったのか、疲れているようだった。

「廓話(くるわばなし)」を淡々としゃべって、それが面白かった。「原色の街」の吉行淳之介が一目置くのもよくわかった。話が終わって、ふと佇む痩せた姿にどこか悲哀があり、それがまたある種の雰囲気を醸し出してもいた。しばらくして、時折、何か独り言のようにつぶやく。一体何をつぶやいているのか気になって、さり気なく近くに行ってみた。 

「大したことねえや」
確かにそう聞こえた。「タイシタコトネエヤ」。何かに向かって、静かに吐き捨てるようにつぶやく。一体、何に向かってこの言葉を吐いたのかはわからない。しかし、彦作村長にとって、この言葉は耳の底に残り、ある種の呪文となった。プレッシャーがかかる局面に出会ってしまった時などに、「タイシタコトネエヤ」とつぶやいてみる。すると、心が少し軽くなるのだった。

吉村平吉さんは竜泉に住んでいたから、「角萬」にはよく来ていたのかもしれない。角萬のソバは普通にイメージされるソバという代物とはまるで違っていた。ぶっ太くて、ごつくて、黒々としていて、しかもお世辞にもうまいとは思えなかった。讃岐うどんをそばにした感じ、とでも言おうか、しかも手打ちなので、不揃いでもある。硬い蕎麦がきをとりあえずうどんかきしめんのようにして、そのままどんと出されたような、何とも形容しがたい、この世にこんなソバが存在するのか? そんな根源的な問いかけをしたくなる衝撃的な出会いだった。

誰かが「ここのソバは元々は博労が食っていたんだよ。それと吉原に繰り出す前の客とか帰りの客とかが栄養を付けるために食った。だからこんなにぶっ太いんですよ。のっかってる肉も昔は馬肉だった。そば粉は信州産のホンマもんですよ」
冗談か本当なのかよくわからなかったが、そんな話がもっともらしく聞こえるほど、常識外のソバだった。

「ウマズイめんくい村」の村長に就任してからというもの、頭の片隅に、ソバ界の大異端児「角萬」には行かなくちゃ、という思いがあった。折りしもある老舗出版社の敏腕編集者から「久しぶりに浅草で暑気払いでもしませんか?」という誘い。悪い話ではない。で、そのついでに13年ぶりに足を延ばしたというわけである。

あれれ、所在地に行くと、こぎれいなノレンと店構えのそば屋が。こんな感じではなかったけどなあ。通りを行く人に聞いても、三ノ輪周辺にはここしかない、と断言する。


         角萬① 


一人の近所のおばさんが、「あっ、10年ほど前に建て替えたんですよ。確かに昔は木造で古い建物でしたよ。今は代も変わってしまいましたからね」

ようやく納得。中に入って、定番の「冷や肉(冷やし南蛮)」(950円)を注文した。時間が午後3時を過ぎていたので客も少なく、6~7分ほどで少々ブッキラボーな女の店員が、「はいッ」と持ってきた。

きしめんのような平打ちのソバの上にザク切りの長ネギとうまそうに煮た豚肉がのっかっていた。ソバというよりうどんと言った方がピッタリきそうなところは伝統を継承していたが、昔ほどのインパクトはなかった。小ぎれいになってしまったとでも言おうか、量も普通のソバ屋よりは多いが、圧倒的だった昔のイメージではない。


         角萬② 


食べてみると、うまい。
多分かつぶしで取ったダシが効いている。醤油ベースの汁は見た目よりもまろやかで、甘すぎず辛すぎず、不揃いでぶっ太いソバとよく絡み合う。多分薄めのダシ醤油で煮た豚肉が絶品。そこに長ネギがちょうどいい具合に合いの手を入れる。うまい。

昔は「こんなに無愛想でぶっ太いソバがこの世に存在するのか」という事実に衝撃を受けたのに、「こんなに食べれるソバになってしまったとは・・・」。
ばんえい競馬の馬が、代替わりしてアラブ馬に変化してしまったような、とでも言おうか。むろん、おっさんの感傷に過ぎないことはわかっている。しかしなあ。

真夏だというのに、村長の胸を秋風が抜けていった。外に出ると、遠くにスカイツリーが見えてきた。



本日の大金言。

「角萬」のソバはこの世のありようを教えてくれる。「ぶっ太いソバがあってもいいじゃないか。グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と。金がなくても女性にもてなくても、いいじゃないか。


         角萬③ 

猛暑のイチロー「氷あずき」について考える

 またまた暑くなりそうだ。今日7月25日は「かき氷の日」なんだそうな。設定したのは日本かき氷協会(そんな団体があるとは知りませんでした)。7・25は「な・つご(おり)」と語呂合わせしたことと、この日は70年以上にわたって長らく日本の最高気温を記録した日(1933年、山形市で記録した40.8度)を記念したそうな。この記録は2007年に塗り替えられたが。
今年はすでに館林市で39.2度を記録しているので、地球温暖化の大きな波を考えると、これから新記録が続々出そうな気がする。

「ああ暑い。原発のことを考えると、エアコンはギリギリまで使わないぞー」
「暑さはこれからが本番。村長の決意もいつまで持つのかしら?」
「やるといったらやる! ウチワと扇風機でひと夏、通すぞー」


彦作村長は、なぜか越中ふんどし姿で、すっくと立ち上がると、その姿のまま飛び出していった。
「恥ずかしいから、着替えていって~」
美熟女の村民2号が作務衣を持って、後を追いかけていった。

目当ては「かき氷」である。それも「氷あずき」。村長は会津藩の下級武士時代に、氷あずきには目がなかった。

城下町の会津若松。盆地ゆえに夏は特に暑い。そこに「山田だんご屋」があった。日を置くとすぐに固くなってしまう笹団子が名物で、添加物など使用していない粒あんが絶妙な甘さだった。串だんごや豆大福など他のメニューがきわめて少ないのも、信頼できる。職人気質の老舗のだんご屋だった。

そこで夏だけの季節限定メニューが「氷あずき」だった。何よりアンコがひと味違う。量も他の店の1.3倍くらいは入っていた。シロップも本当に蜜のようだった。手動のかき氷機で「カシャカシャカシャ」という音が聞こえてくると、生唾をのみこむのに苦労するほどだった。氷は雪のようなきめ細やかさではなかったが、その分、冷たさがストレートに伝わってきた。

あれ以上の氷あずきは食べたことがない。山田だんご屋は悲しいことに3年ほど前に店をたたんでしまった。
それに近い感動を与えてもらったのは、東京・湯島にある甘味屋「みちばち」の「氷あずき」(600円)、銀座虎屋の茶寮で食べた「氷あずき(金時)」(1155円)だ。

宮仕えを終えて、ビンボーになってしまったためと、村民2号の財政再建のためのチョー緊縮財政のために、彦作村長は、安くてうまい「氷あずき」を探し回ることもこの夏のテーマの一つになった。
佐野ラーメン探索の途中にふと閃いて入ったのが、佐野駅前にある甘味屋「冨士屋」だった。越中ふんどしは他人に警戒感を与えるので、作務衣の下にしっかりと、納めこんでいた。


                 佐野・冨士屋かき氷 


すぐに「かき氷あります」の文字が飛び込んできた。条件反射的に「氷あずき」を注文。350円、という価格設定もうれしい。ローカルならではの値段と言える。銀座の虎屋などはうまいのはうまいが、1000円を軽く超えてしまう。B級うまいもの探しを標榜する彦作村長としては、「氷あずき」の上限はせいぜい500円と決めている。

透明なガラス容器の底には、小倉あんが地下金脈のように控えている。雪のようにきめ細かい「富士山の頂上」にも小倉あんが逆冠雪状態で、「おいでおいで」している。透明なシロップも多めにかかっていて好感がもてる。サクサクとスチール製の匙(さじ)を入れていく。


かき氷の歴史は古い。あの清少納言が「枕草子」で「あてなるもの」(上品でいいもの)の中に、「削り氷」を挙げている。つまり、平安時代にはすでに貴族社会では「かき氷」を楽しんでいたことになる。そのころから昭和の初期くらいまでのかき氷は主に甘露水中心で、砂糖をかけたり、シロップをかけたりて食べるのが一般的だったようだ。

かき氷とあずきの組み合わせはそれほど古くはなく、昭和に入ってからのようだ。金時小豆を使用していたので、「金時」と呼ばれていた。今でも「宇治金時」など「金時」という呼称は関西を中心に生きている。「金時」という呼称は小豆の姿が怒った時の「金時太郎」に似ていたことによるという説もある。

「やっぱり夏は氷あずきに限る。氷あずきのない日本の夏なんて、イチローのいないメジャーリーグのようなもんだよ」


北海道十勝産の小豆を使った氷あずきを口に運びながら、彦作村長は、ヤンキースに電撃移籍したイチローの話題を振って、「冨士屋」のおばさん店主の関心を呼ぼうとするのだった。かき氷を食べる「恥かき氷」の変なおっさん。おばさんの目は警戒感で一杯だった。


本日の大金言。

たまには氷あずきを食べながら、平安の世を想う。不安の夏の過ごし方としてぜひおすすめしたい。

         佐野・冨士屋かき氷③

ありえない奇跡!京菓子の悪夢にうなされる

 この世にはあり得ないことが起きる。そう書くと、何やら超能力マニアのように思われるかもしれないが、赤羽彦作の長い人生の中で、「この人は人間を超えている。ひょっとして妖怪ではないか」、そう思わされた達人の一人が京都にお住いの調布先生だ。還暦を過ぎているのに、髪の毛はふさふさ、白髪もなく、しかも悔しいことにハンサムである。

調布先生には底知れない「文化のテロワール」があり、ワインに例えると、シャトーディケムみたいな人だ。小生の友人であり人気ブロガーの渓流斎先生もほとんど帰依してしまい、今では狷介卑屈(不屈ではない)な彦作村長も帰依しかかっている。何ということだ。そのくらい人知を超えた、不思議な人物なのである。

その調布先生だが、ときどき東下りする。噂では「フリーメーソンに匹敵する極秘シンジケートの重要任務遂行のため」とか「単に美女に会いに来るため」とか、真相は不明だが、どうやら様々な目的があるらしい。まさかとは思うが、中には「あの人は応仁の乱のころから京に住んでいた。財布をつい巾着と言ってしまうほどで、普通の尺度ではとらえきれない。最近、東下する回数が増えたのも、ひょっとして重大危機にある江戸城からの相談事のためではないか」という人まで出る始末。

で、その調布先生が先日、彦作村長に手土産を持ってきてくれた。村に帰ってから、開けて見て驚いた。美熟女の村民2号も思わず「すごい、きれい!」と漏らしたほど。緑壽庵清水の「金平糖」だった。小箱にはソーダ色と蜜柑色の金平糖が和紙に包まれて品よく納まっている。しかも、緑色のブリキ(?)の小箱まで付いている。


          金平糖① 


コンペイトー。説明するまでもなく、大航海時代の1546年(天文15年)頃、ポルトガル人が日本に持ってきた南蛮菓子で、カステラも一緒に日本に伝わったとされている。ポルトガル語のコンフェルトが、日本流になまって「コンペイトー=金平糖」となったとも言われている。宣教師のフロイスが「日本史」の中で、織田信長に献上したところ大変に喜んだ、とも記録している。

調べてみると、緑壽庵清水は、日本でただ一軒のみ、金平糖を手づくりで専門に作っている老舗。創業は1847年(弘化4年)。金平糖を手づくりするのは、大変難しく、「コテ入れ十年、蜜掛け十年、一人前になるまで最低でも二十年は必要」と言われている。緑壽庵清水はこの技術を門外不出として、一子相伝のワザとしている。
こんな店が京都にはさり気なく存在しているのだ。調布先生の存在同様に「あり得ない」ことがある、と思うしかない。

村長と村民2号は、まるでサファイアかルビーでも扱うように、そっと手のひらに置き、目で楽しみ、香りで楽しみ、それから口の中に含む。南蛮菓子の気が遠くなるような歴史と一子相伝のワザを思い描きながら。

駄菓子屋などで売っている金平糖とは食感からしてまるで違う。きれいなブルーの「天然水サイダー」もオレンジ色の「蜜柑金平糖」も甘さがまろやかで、しかも底知れない奥行きをジワジワと感じさせる。

「どないやどないや、京の南蛮菓子のお味は。田舎もんにわかるやろか」
そう迫られている錯覚に襲われていく。ま、まいりました!金平糖さま、お許しください。もはや白旗を上げるしかなかった。

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調布先生にはかつてさらに凄い、そう表現するしかない和菓子屋に連れて行っていただいたことがある。姉小路烏丸にある「亀末廣」である。創業は1804年(文化元年)。凄いのは創業当時のままの店構えと店内の様子。干菓子と半生菓子がタイムスリップしたような空間に見事に配置してある。何やら時間が200年ほど前で、止まってしまっているようなのである。

「ここは干菓子ですよ。干菓子を買わなきゃダメよ」
そうアドバイスする調布先生だったが、「あんこマニア」の彦作村長は、ちょうどその時期売っていた「大納言」を買った。最高級小豆の代名詞でもある丹波大納言の新物(秋から冬に収穫される)を丹念に煮詰めて造る。

竹の器に詰まった亀末廣の大納言!見事な粒々が210年の熟成から目覚めて、「わらわをどないしはるおつもりどす?」そうささやきながら、絹の襦袢をはらりと落とすような。これは単にうまいという言葉を超えて、感嘆脱帽するしかない。値段は少々張ったが、そのくらいやむを得ない。そういう気にさせる。

「ここの凄さは、その辺の老舗と違って、百貨店がいくら出店を頼んでも首を縦に振らないところなんですよ。亀末廣の味はここでしか買えない。どないですか?」

京都の裏の裏まで知っている調布先生の言葉が一瞬、時空の彼方へと舞い上がり、やがてそれがゆっくりと降りてきて、村長の耳のあたりで残響となって渦巻くのだった。カメ、恐ろしや。


本日の大金言。


京都の磁場はあらゆるものを引き寄せる。権力者の夢も野望も生血までも。そこから染み落ちてきた一滴。それが「京の宝石」となる。恐るべし、京都。


札幌味噌ラーメンは月一回でいい

 彦作村長は記者時代、札幌が大好きだった。仕事で出張の話があると、真っ先に手を上げて、「あ、それ、ボク行きます。2泊3日はきついですけど、最低でもトップ原稿2本とサブ原稿7本は取材してきます。まっかせてください」などと真面目に大ぼらを吹いて、デスクを煙に巻いて羽田からビューンと千歳まで飛ぶ。

札幌に足を入れた途端、まるでホームグラウンドに来たような気分になって、あちこち歩き回った。夜はジンギスカンの赤ちょうちんに入り、面白い店はないかと鼻をひくひくさせる。腰痛ヘルニアになってしまった現在では、とても考えられないくらい元気だった。

で、楽しみの一つがラーメン横丁だった。まるでモグラの巣穴のような狭い路地にラーメン店が密集している。「味の三平」とか「ひぐま」といった人気店の前には行列ができていた。「味の三平」は味噌ラーメンの元祖で、中華鍋でもやしなど野菜をいためて、そこにスープと味噌を入れて、仕上げるという「札幌味噌ラーメン」の形を作った店だ。西山製麺の麺をいち早く使ったのも「味の三平」と言われている。

「ひぐま」は日本はもちろん、フランスのパリにまで進出して成功するなど、「札幌味噌ラーメン」を世界ブランドにまで広げている。彦作村長がパリでルーブル美術館近くの「ひぐま」に入って、パリッ子と一緒に安ワインをを飲みながら、チャーシューや餃子を食べた話は以前書いた。

札幌で食べた味噌ラーメンは格別だった特に夜遊びした後の味噌ラーメンは「チクチクするような」罪の意識までを北の大地の香ばしい味噌が、赤塚不二夫のような大きな心で「自分を責めるな、それでいいのだ」と慰めてくれるようだった。

東京でも麦みその「銀座時計台」やFC展開している「「むつみ屋」をはじめ「純連」「味の時計台」など、あの濃厚な味噌と中太の縮れ麺を食べたくなったら、谷岡ヤスジのバター犬みたいに飛び込んでは北の大地を思った。

〈ここでお詫びギャグが古すぎるというのは理解しておりますが、「2人のギャグ漫画の天才」赤塚さんと谷岡さんは村長が最大限に尊敬しているので、使わせていただきました。かつては大変お世話になりました。こんな使い方をしてすみません。


                 久喜・ふきのとう① 


さて、ウマズイめんくい村の村長になってからは札幌味噌ラーメンを食べる機会が減った。というのも、元々寒冷地である北海道で誕生したことと関係しているが、「体を温める」効果を高めるために、ラードとにんにくの割合が多い。そこに独自にブレンドしたした味噌。それが病み付きになる秘密でもある。

「ひと月に一回ならいいわよ」
悲しいかな、健康に問題を抱える彦作村長が、うるさい村民2号からようやくとった許可である。札幌味噌ラーメンはこのペースがいい。

で、7~8年前からそっと通っているのが、埼玉県久喜市の「らーめん屋 ふきのとう」。ここは店主が北海道出身で、しかも使っている麺はあの西山製麺の黄色味がかった中太縮れ麺。札幌のラーメン横丁に負けない本格的な味噌ラーメンで、村長が太鼓判を押せる店だ。

醤油らーめん(750円)、塩らーめん(750円)も掛け値なしにうまいが、ここはやはり味噌らーめん(800円)を注文。たぶんとんこつベースに、味噌も麦味噌など数種類をブレンド、ひと言では分析できないほどのさまざまな要素が詰まった濃厚で甘めでコッテリしたスープと西山の中太縮れ麺が実によく絡まる。ほのかに山椒の香りも混じっている。

そこに千切りした白ネギと洗練されたシナチクが合いの手を入れる。厚めのチャーシューは豚ばら肉を柔らかく煮込んでいる。そこに半分に切った半熟の煮卵。麵の量は少々少な目。「味の三平」など元祖系のように、もやしやタマネギなど野菜はほとんどない。


         久喜ふきのとう② 


いま札幌でも人気店である「純連」のような、ある意味で「余分なもの」をそぎ落としてスープの中に練り込んだ、とでも表現したくなる「進化系の味噌ラーメン」と言える。とろけるようなうまさ、である。

「そこが難しいところだけれど、ラードとか背脂をもう少し少なくしてくれたら、月に3回は許可するわよ。家計もあるけどね」
美熟女の村民2号が、無茶なことを言って、チクリと釘を刺す。

日差しが強くなってきたウマズイめんくい村の午後のひと時。村長は最近急増している村民2号のお腹のあたりのラードを思って、自分がとろけてしまいたくなるのだった。


本日の大金言。

ラードの少ない味噌ラーメンとラードの少ない人生、どっちが幸せなんだろうか?


          久喜ふきのとう③

異常気象がどうした? 炎暑の後の手造り純米酒

 赤羽彦作村長の楽しみの一つに「日本酒」がある。2日前までは猛暑を超えて40度近い炎暑だったが、昨日今日とウマズイめんくい村は首都圏と同様に24~5度と冷え込んでしまった。テレビなどでは「5月の気温」と報じている。

このところ猛暑になると、カスミストアのプライベートブランドの缶ビール(100%麦芽でホップはドイツ産)を飲んでいる。これが、値段が安い上に実にうまい。枝豆かトウモロコシをつまみにして、程よく冷やしたビールをぐびっと飲むと、ノドから「黄金の幸せ」が五臓六腑にシュワシュワと沁み渡っていく。

村長は普段はビールはあまり飲まない。熱い夏だけは例外で、本当にノドから手が出るようにビールを求め、透明なギヤマンのコップに注ぐ。「パブロフの犬」状態をしばし楽しんでから、グググと飲む。これがたまらない。

ところが、昨日今日と冷え込んでしまった。どう考えても日本列島を取り巻く環境がすべて「何かが起こるぞ」と告げているとしか思えない。異常気象というより、大きな地殻変動期に突入したのではないか?

「心配してもしょうがないわよ日本列島だって今の形になったのはたった1万2000~3000年前でしょう? 大きな時間軸で見ると日本列島が地殻変動を起こすのが自然で、東日本大震災はさらなる地殻変動の始まりのゴングかもしれないわよ」
美熟女の村民2号がオソロシイことをさらりと言う。
「で、最近、チョコレートクッキーを食べまくっているというわけか? 日本列島にさらに重圧がかかる(笑い)」
「村長に言われたくないわよ。自分はラーメンだ、ソバだ、豆大福だといかにも仕事でもしているみたいな顔をして、遊びまくっているくせに。腰のほうも治る兆しもないくせに」

一触即発・・・。そこに、久しぶりに文吾ジイが日本酒をぶら下げてふらりとやってきた。
「嘆かわしい。ウマズイめんくい村の危機じゃな。まあまあ、そう角を立てても何も問題は解決せんぞ。今日はな、村長が好きな純米酒を持ってきた。みんなで飲もう」
文吾ジイもたまにはいいことをする。村長も村民2号も三角になっていた目がキラキラ。アイドル犬の村犬チャイが重症で参加できないのが悲しいが、突如、真夏の緊急村民祭りとなった。

文吾ジイが持ってきたのは、「亀甲花菱」純米酒。北埼玉にある小さな酒蔵・清水酒造の逸品だ。

彦作村長はエンターテインメント新聞社の記者時代に、「全国の酒蔵を回る会」のメンバーだった。


          花菱② 


この会の会長はすでに亡くなったが、放送作家で劇作家の阿木翁助さんだった。日本テレビの常務だったこともある人で、最後は日本放送作家協会会長という肩書だった。村長はこのお方に酒の飲み方を教えてもらった。偉ぶったところがまるでない、いつも泰然としていて洒脱な大酒飲みだった。ペエペエだった村長を「若い友人」と紹介してくれたり、永福町にあるご自宅にも何度か招待してくれたりもした。「あんなふうになりたいなあ」と思いながら、ついぞその一端をつかむことさえできなかった。
新宿のムーランルージュや築地小劇場時代も書き込んだ「演劇の青春」という名著も残している。それはいまも村長の愛読書でもある。

す、すまん。また脱線してしまった。そのくらい日本酒好きの村長がひそかにハマっているのがこの「花菱」である。それを言いたかったんだ。
年間200石(一升びん換算で約2万本)と少量しか作っていない。手造りにこだわり、ほとんど宣伝もしていないのに、ファンが少しずつ増えて、今では、東京都内にも「花菱」を置く店が出始めている。これだけ小さな酒蔵なのに全国鑑評会で連続金賞を獲得している。いかにいい酒を造っているかの裏付けになると思う。


          花菱の夕飯① 


今回は純米酒。酒米は美山錦(他に山田錦もある)。杜氏は南部杜氏系でやや辛口。飲み口は「淡麗ですっきりしていて、しかもまろやか」。
「こんなにいい酒がこんな埼玉のド田舎にあるのが不思議じゃよ。村長と村民2号の平和を祈って、東京に出稼ぎに行ったキオの未来を祝福して、それとチャイの奇跡を祈って乾杯!」

文吾ジイの音頭で濃密でおいしい時間が始まった。猛暑でビールが飲めなくても、突然のように気温が下がっても、考え方一つで食卓は楽しくなる。食卓は踊る、だ。飛び切りの純米酒が名演出家となることだってある。不安はいつでもどこにでもやってくる。それすらも楽しむ。あらゆるものが共存している。排除よりも共存。時ならぬ「ウマズイめんくい村」の小宴は夜空に浮かぶ三日月が苦笑するまで延々と続くのだった・・・。

本日の大金言。

苦しいときは三日月を見よ。それが杯に見えてきたら、星を肴に一献傾けるのも悪くはない。






佐野ラーメンの元祖・宝来軒うまさの秘密

 佐野ラーメンは不思議な存在である。札幌、喜多方、博多が「日本三大ラーメン」と言われている。しかし、首都圏からもっとも近く、ラーメン店の数でいえば、喜多方の約120軒を大きく上回る約210軒がノレンを下げているというのに、どうしたわけか首都圏で「佐野ラーメン」というノレンを下げている店は少ない。「札幌ラーメン」や「博多ラーメン」さらにはここ数年で増えている「喜多方ラーメン」に比べて、その存在は地味である。

彦作村長は、宮仕え時代から、佐野にもよく足を運んだ。50~60軒ほどは食べているが、ほとんどハズレがない。青竹手打ち麵という中国人経由の特殊技術で打った麺は、加水率が高く、しかもかなりの熟練を要する。店にもよるが、平打ち縮れ麺は柔らかいのにコシがある。醤油ベースの澄んだスープとチャーシュー、ナルト、シナチクとのバランスが絶妙で、同じ平打ち縮れ麺の喜多方ラーメンと共通点が多い。ラードや背油を必要以上は使わず、流行りの魚粉などは見向きもしない。だから、妙にギトギトしていない。はっきり言おう。村長は佐野ラーメンの大ファンである。

「佐野ラーメンが全国展開に積極的でないのは、水と麺へのこだわりが強く、佐野以外では同じように作れない、ということがあると思います。水がとにかくいいのです。日本名水百選にも選ばれている出流原弁天池湧水や蓬莱山の伏流水をわざわざ汲みに行く店もあります。水道水も佐野はそういった自然の水源を使っているんですよ。だから、佐野には浄水場がないんです。その必要がないんです。これも佐野ラーメンが佐野以外にあまり出ていかない理由です。佐野ラーメンはぜひ佐野に来て食べてください、そういうこだわり方が半端じゃないんです」
佐野で複数のラーメン関係者に話を聞いた結果である。


          佐野ラーメン・宝来軒② 


佐野ラーメンの元祖は「宝来軒」。
昭和5年創業。当時、佐野駅前で営業していた「エビス食堂」で働いていた先代が、中国人コックから青竹で麺を打つ技術を教えてもらい、そこに独自のワザと味を工夫して、「宝来軒」をスタートさせた。現在は2代目と3代目が宝来軒のノレンを守っている。

きわめて良質の天然伏流水と中国人の存在。このあたりは、喜多方ラーメンの元祖「源来軒」と似ている。喜多方ラーメンについてはいずれ現地からレポートするつもりである。

で、その原点「宝来軒」に久しぶりに行ってみた。入口には「餃子はありません」という小さなプレートが。「青竹手打ちラーメン一筋」の矜持がビンビン伝わってくる。

もちろん、「ラーメン」(600円)を注文。コップに入った水が実にうまい。平日なので、土日のような混み具合ではない。待つこと7~8分、あの懐かしい正統派ラーメンどんぶりがやってきた。まず他のラーメンと明らかに違うのは、そのあまりに透き通った醤油ベースのスープだ。

たぶん鶏ガラから出た脂がうっすらと浮いている。ラーメンに美しさを感じることは少ないが、その透き通り具合が「おぬし、只者ではないな」と一瞬息をのむほどきれいなのだ。そこに余分な脂身のない大きめのチャーシュー、ナルト、シナチク、海苔、刻みネギが控えている。「うーん、完ぺきということはこういう事か」とひれ伏したくなるほどの出来栄え。


        佐野ラーメン・宝来軒① 
まずスープをひと口。思った通り、淡泊を装いながら、奥の深いまろやかなコクが粘膜にささやきかける。麵は見た目よりもコシが強く、しかも食感がつるりとしている。チャーシューは固すぎず、柔らかすぎず、噛むとほんのりと甘みがしみ出てくる。村長は宝来軒のシナチクが好きだ。普通、シナチクはそっけないか妙にふにゃっとしてるかどちらかの比重が高いのだが、この店は違うと言わざるを得ない。タケノコの持つ本来の甘みをそのまま殺さずに、しかもいい食感を押し出している。

これだ、これだ。お宝鑑定団ではないが、「いい仕事、してますねえ」と言いたくなった。ちらっと見ると、厨房には高齢の2代目が眼光鋭く立っていた。腰痛ヘルニアの彦作村長と目があってしまった。敬意を表して挨拶すると、二言三言。
「純粋に青竹できっちりと打っている店は少ないんですよ。うちは先代から同じ方法でやってます。手間を惜しんだらいけません」

若い3代目が青竹で手打ち麺を作っているのを見た。その神経の配り具合が、まるで工芸品でも作っているように見えた。こうやって代々受け継がれていくんだなあ、彦作村長は本物に出会ったいい余韻を楽しみながら、店を出ると、佐野の空を見上げた。サノ、よいよい。夏雲の間からそんな合いの手が聞こえるようだった。


本日の大金言。

宝来軒のラーメンは目立ちたがりが闊歩するラーメン界の笠智衆である。

         佐野ラーメン・宝来軒④ 





銀座木村屋総本店を超える桜あんぱん

戊辰戦争によって江戸時代が終わりを告げ、「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」明治時代が幕を開けると、「和魂洋才」という名のもとに、新しい文化が花を開いた。 彦作村長の大好きな「あんパン」もその一つ。日本人は神代の昔から外から入ってきた文化や文明をうまく取り入れて、まったく新しい価値を創造する才能が秀でている。1+1=2ではなく、1+1=3にしてしまう才能。これは大いに自慢していい能力だと思う。

カレーライスやカツ丼などもザンギリ頭を叩いた結果、生まれた食の傑作だと改めて思う。

さて、そのあんぱんだが、最初に作ったのは銀座木村屋総本店の創業者・木村安兵衛。木村屋自体は前身の文英堂を入れると、1969年(明治2年)に創業している。翌年の明治3年に屋号を「木村屋」と改め、銀座に店を構えた。ちょん髷を切った安兵衛さんが、次男の英三郎やパン職人の武藤勝蔵らとともに、日本人に合うパン作りに取り組み、苦労の末に、小豆をパンでくるむという画期的なアイデアによって、「あんパン」を誕生させた。文字通り元祖・あんパン屋である。しかも、発酵にイースト菌を使わずに、米麹(酒種)を使うという手法も編み出した。これはスゴいことだ。

明治7年に売り出すと、あっという間に東京っ子の好奇心と味覚をとらえて大ヒット。翌年には噂を聞きつけた明治天皇の教育係だった山岡鉄舟が花見に行幸した際に献上している。

「お上、何やらちまたでほっぺたが抜けるような美味いパンが大評判だとか」
「ほう、朕も聞いておる。一度、食してみたいものだのう」
「そう来ると思いましてね、これでございます。ご賞味くださいませ」
(20秒ほど沈黙の後)
「うまい!あんとパンが絶妙じゃ。これが噂のあんパンか」

そんな会話があったかどうかはその場にいないのでわからないが、それに近い話があったと思われる。それ以来、木村屋のあんパンは皇室御用達になったからだ。これが現在にも引き継がれ、「あんぱん=木村屋」となった。
やがて、あんパンは全国に広がり、昭和も戦後に突入すると、やなせたかし作「アンパンマン」がヒーローとなるほど単なる菓子パンの領域を超えて国民的人気となった。

赤羽彦作村長は宮仕えの頃、銀座よりもノレン分けした築地木村屋のあんパンが好みだった。本家は洗練された味だが、小ぶりで、しかも値段も比較的高め。それに比べて、築地分家のほうは大きくてアンもぎっしり入っている。1個の満足感が違った。

その3軒隣にあった午前中で売り切れてしまうダンゴ屋のダンゴ(餅ダンゴと草ダンゴの2種類しか売っていなかった)とともに、村長の「黄金のあんルート」だった。そのダンゴ屋さんは、おばあさん店主がノレンを守っていたが、十年ほど前に「ダンゴを作れる人がいなくなってしまった」という理由で店をたたんでしまった。築地のダンゴと言えば、今では「茂助だんご」が有名だが、味もこだわりも比較にならない。

いい店が消えていくのは悲しい。彦作村長が午前中に買って、夜、家で食べようとするとすでに固くなっていた、あの絶品ダンゴを惜しむ。狭い店内には小さいテーブルがあり、
「できればここで食べてってほしいんですよ。添加物なんて全然使ってないので、すぐに固くなっちゃうんですよ」
おばあさん店主とそんな会話を交わしたことを思い出す。

日暮里の「羽二重団子」よりも上だった、と断言してもいいくらいの味だった。

さて、あんパン。佐野ラーメンの探索中に、昔から気になっていた「ナカダの桜あんぱん」本店に足を延ばした。創業は昭和11年。東京・有楽町前の交通会館1階にある「地方物産のアンテナショップ」で、いつも人気上位の「佐野名物 桜あんぱん」の味が絶妙だったことが、宮仕えを終えてからも頭の隅に残っていたからである。

佐野駅前にある「ナカダ」本店に入る。昭和の香りのする小さなパン屋だった。

          桜あんぱん⑤ 

あった、あった。ひと包み5個入り600円。こんがりと見るからにうまそうに焼けた表面。米糀で発酵させたもっちりとした生地。その中にぎっしり詰まった十勝産小豆のこしあん。へその部分には木村屋と同じように桜の花びらの塩漬けが埋まっている。それが5個! 塩漬けした桜の大きな葉っぱが乗っかっているのも心意気を感じる。

焼き立てをひと包み買い込む。これだこれだ。桜と酒種のいい香りがする、手に取るとずっしりと重い大きめのあんパン。その圧倒的な存在感。両手でゆっくり割ると、中から上質のこしあんのみが醸し出す「高原のさわやかな風」が立ち上ってくる。何という幸せ感。オーバーな表現ではない。食べ終えるのが惜しい。

甘さ控えめの絶妙こしあんが、佐野という関東の田舎で、酒種のしっとりしたパン生地と出会って大恋愛の末に結婚にこぎつけた。仲人はナカダ。そんな例えをしたくなる。それが今、彦作村長の鈍感な前頭葉に「1+1は3ではなく4にも5にもなるんだ」とささやく。

このボリュームで1個120円というのも特筆すべきだろう。彦作村長は、洗練という意味では銀座・木村屋にかなわないかもしれないが、「トータルで元祖の桜あんぱんを凌駕している」。茶柱の立ったお茶をズズズとすすりながら、本気でそう思ったのだった。

                桜あんぱん②       
         

本日の大金言。

人生はボードレールの一行にしかない。近代日本は特上のあんパン一個にしかない。  

                            桜あんぱん③

炎暑に再び冷やし中華の誘惑

 梅雨明けと同時に群馬県館林で39.2度を記録するなど、日本列島は各地で35度を超える猛暑となった。東京も都内では36~7度と発表されたが、体感温度は40度を超えていたという。コンクリートジャングルで自然放熱のシステムがない事を考えると、案外都心のサラリーマンやOLの方が体調維持という面ではきつかったのではないか。

40度と言えば、もしこれが病気による熱なら、天国に行ってもおかしくないくらいの「臨界温度」だろう。
改めて、昔の日本人が持っていた「打ち水」や「通気性のいい木造家屋」や「植木」などの放熱の知恵に敬意を表したくなる。

自然をそのまま受け入れて、「共生」しながら、知恵を発揮する。
原発の問題をみるにつれて、人間の思い上がりや傲慢が、地球上でさまざまな軋轢を生んでいることを彦作村長は考えざるを得ない。絞っても何も出てこない頭で。


「いったいどうしちゃったのかしら? 地球まで病気になっちゃったのかしら。3.11以来のここ最近の異常気象を見てると、何だか不安になってくるわ」
美熟女の村民2号が丸大ハムのようなお腹を出して、団扇をパタパタさせながら言った。ここ十数年、病気とは無縁である。

「確かに。地球が病気だとしたら、地球にとっては人類が厄介なウィルスということになるかもな。つい100年ほど前まで世界の人口は約16億人くらいだったのに、今では70億を超えるほどに膨らんでしまった。そして、それぞれが人生を背負っている。それぞれが夢と欲望を持っている。天使と悪魔を同時に持っている存在、それが悲しいかな人間なんじゃよ。原子力の問題も戦争の問題も経済の問題も、根っこは同じだと思うよ」
珍しく村長が長い吐息をついた。吐息をついても問題は解決しない。

「作家の深沢七郎はその点、徹底してたわね。人口が減れば平和になる、そう言ってたし、三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺した時にも、自然淘汰だ、そう平然と言ってた。だけど、凡人の私たちは深沢七郎のようにはなれない」
「善きにつけ悪しきにつけ、結局は人間がここまで進化してしまったんだから、人間の知恵を信じるしかない」
「そうね。で、私たちには何ができる?」
「猛暑というより炎暑には自分たちのできる範囲で対処すること。原発に反対するなら、できるかぎりエアコンを使わない。そのくらいは当たり前のこととして、例えば今日の昼飯。冷やし中華で涼を取るというのはどうだろう?」
村長と村民2号は同時に立ちあがった。
「いいアイデアね。もちろん、村長のおごりで」

         ごまだれ冷やし中華② 

猛暑にはソーメンか冷やし中華に限る。これも日本人の知恵と言えないこともない。特に酢が入っている冷やし中華は以前にも書いたが、バブル以前には、真夏の人気定番だった。それがいつしか「つけ麺」なるものにその王座を奪われ、今ではナンバー2以下の座に甘んじているように思う。

1970年代にはジャズピアニストの山下洋輔が冬に冷やし中華が食べられないことに憤慨して、作家の筒井康隆やタモリや赤塚不二夫らを巻き込んで「全日本冷やし中華愛好会」なる団体を立ち上げたほど、冷やし中華は特別の存在だった。あれが冷やし中華の黄金時代だったかもしれない。バブルを経て、それがはじけ、失われた十年をくぐっているうちに冷やし中華も輝きを失っていった。日本が汗をかいた時代が終わりを告げると同時に冷やし中華もメーンの舞台から退場を余儀なくされていった。汗と共に去りぬ。

村長は近くの本格中華料理店「鳳翔菜館」に久しぶりに足を運んだ。ここの「ごまだれ冷やし中華」が絶品だったことを思い出したのだ。宮仕え時代には月に3回は通って、キリンの生ビールと一緒にこれまた絶品の餃子も頼んで、「日本の夏はこれに限る」などとバカ顔で悦に入っていたものである。

今回は猛暑を超える炎暑だったので、冷やし中華の中でも刺激の強い「ピリ辛あえ冷やし中華」(880円)を注文した。村民2号は村長の財布の軽さも顧みずに、「中国風みそそば」(900円)と餃子(450円)を注文。自分が変な理屈をつけて誘った手前、文句が言えない。敵もそのあたりの村長の心理をよく知っている。

         ごまだれ冷やし中華① 

ゴマダレと酢醤油のバランスが実にいい。ここは麺が細ちぢれ麺でコシがあり、ゴマダレ酢醤油とよく絡み合う。クラゲ、キュウリ、ロースハム、はるさめ、ネギがまるで六重奏団のように主旋律のピリ辛冷やしを引き立てて、「どうだ、やっぱり夏は冷やし中華にかぎるだろ?もう一度汗の大切さを噛みしめてみろよ」とコブラツイストでささやくのだった。

参りました! 先日は「冷やし中華はバブル以降ひと夏の愛人」などと書いてしまってすいませんでした。冷やし中華さま、平伏して以下の通り訂正いたします。


本日の大金言。

冷やし中華は不安に揺れる炎暑ニッポンの救世主である。



昭和の下町の匂いのする黒蒸しパン

 赤羽彦作村長の趣味は「目の散歩」である。宮仕えの時代も仕事の合間を見つけては、路地裏からメーンストリートまで歩き回った。付けられたあだ名が「散歩屋」。当時上司だった今をときめくエッセイストの川北義則さんが、少々あきれ顔で、「お前は仕事もしないであちこち歩き回っている。今日から散歩屋、と呼ぶことにする」。慶応ボーイで洒脱、とにかく仕事がズバ抜けてできる上司だった。以来、川北さんが退社するまで、「散歩屋」と呼ばれることとなった。

うまいラーメン屋、ソバ屋、和菓子屋などを見つけると、すぐに入って、「当たり」だとうれしくなった。特にガイドブックにあまり出ていない店を発見した時の喜びは、飛び上がって、空中を三回転したくなるほどだった。門前仲町「支那そば 晴弘」の冷やし支那そば、浅草「徳太楼」のきんつば、原宿「瑞穂」の豆大福など、挙げればきりがない。

中でもちょっと悔しい思いが残るのは、作家の池波正太郎がエッセイで書いている門前仲町の「清水屋だ。株屋(証券会社)の丁稚時代の思い出として、得意先回りの合間を見つけて、深川不動尊近くにあった「清水屋」に立ち寄って、「きんつば」を食べることが無上の楽しみだった、あれ以上のきんつばはその後も食べたことがない、と。

遡ること10年ほど前。村長は犯人を追いつめる刑事よろしくその清水屋を探し回り、苦労の末にようやく見つけた。灯台下暗し、よくお参りに通っていた参道の中の一軒だったのである。近くには漬け物屋の「近為」など目立つ店が多いが、何も考えずにいると通り過ぎてしまうほど目立たないちいさな店。「甘酒」としか書いていない。そこが清水屋だった。
人の気配がないので、「ごめんください」と大声を出すと、清楚できれいなお年寄りの女性が出てきた。

「きんつばはもうずいぶん昔にやめてしまいました。作れる人がいなくなってしまったんですよ。誰でも作れるというものではないし、いい加減なものを出すわけにはいきませんからね。今は甘酒しかやっていません。昔は小津安二郎さんも良く見えました。ええ、近くに住んでましたからね」

1970年代まではきんつばを作っていたという。池波正太郎が「最高のきんつば」と書いたきんつばが、村長の目の前から羽根をはやして天国へと消えていった。悔しかった。何ということだ! その時だけは不動尊に悪態をついてしまった。

その大好きな散歩で、見つけたのが北千住の「葛飾 伊勢屋」の黒蒸しパンと蒸しきんつば。ここは豆大福が看板だが、村長が北千住に別宅を構えていたころに、たまたま「蒸しきんつば」を買って食べてみた。蒸しきんつばは榮太楼総本舗が有名で、関西のものは長方形の羊羹型だが、関東(信州以北)は丸い形で、まさに刀の鍔の形をしている。伊勢屋の蒸しきんつばも丸型。小豆の香り立つような甘さと食感のよさに驚いた。値段も1個120円という庶民価格を守っている。

         北千住伊勢屋 蒸しきんつば① 

「できたら今日中に食べてくださいね。添加物は使ってませんから」
店のおばさんの下町特有のテキパキとした物腰も気に入った。

もうひとつ「黒蒸しパン」(180円)もここで発見した。この店の隠れた名品といいたくなるほど。昼過ぎには売れ切れてしまう人気だが、売れるからと言って、数を多く作ることはない。村長も3回中2回は空振り。

「すいませんねえ。あまりたくさんは作れないもんで」
メガネの若主人にそういわれると、「じゃあ、今日は蒸しきんつばだけにしよう」と明るく引き下がるしかない。

黒糖を使って、表面には干しブドウがぎっしり。手にのせると、何という厚みと重み。三角形に切り分けられた断面から黒蒸しパンのいい香りが立ち上がってくる。昭和の下町のよき食職人の佇まい。これも添加物を使用していないので、賞味期限は1日だけ。
村長は冷蔵庫で冷えたマーガリンを付けて食べるのが好み。それと牛乳は切り離せない。

ほどよくもっちりとした食感と小麦粉と黒糖の自然な甘みがが口の中いっぱいに広がり、それは一瞬の幸せとはいえ、黒蒸しパンが洋菓子屋ではなく下町の和菓子屋で売られていることを祝福したくなるのだった。


本日の大金言。

諸君、たまには下町に出よう。そこにはテレビやパソコンにはない生活の味わい、喜怒哀楽が渦巻いている。


           北千住伊勢屋・黒蒸しパン 




想定外のごっついうどんと異種格闘戦

 うどんと言えば、讃岐うどん、稲庭うどん、水沢うどんが「日本三大うどん」と言われているが、これらのうどんは味も食べ方も洗練されていて、ある意味では、うどん界の「エリート」と言ってもいい。彦作村長もそれぞれの味を楽しんでいるが、その対極と言ってもいいうどんに出くわした。

友人の田吾作夫妻を誘って、今が見ごろの埼玉・行田にある「古代蓮の里」に行った。気温はゆうに30度を超えている。

                古代蓮① 

ここは、今から約41年前の1971年、ゴミ焼却場を建設するために造成工事を始めたところ、たまたまできた水たまりに、地中深く眠っていた不思議な蓮が咲き始めた。巨大な葉と見たことのないピンク色のきれいな花。「これはなんだ?」調べてみたら、約1500~3000年前の古代蓮であることが判明した。
行田市は突如出現した縄文時代の天然記念物に大喜び、観光の財産にもなると、工事をストップ。以来「古代蓮の里」として整備され、今では県外からも大勢の見物客が訪れる観光スポットになった。

「ゴミ焼却炉を造るつもりが、そんなハスではなかった」
「古代蓮というより金の蓮」
「お釈迦さんもびっくりのハスたないシャレだ」
「これがホントの誇大シャレ」
彦作村長がくだらないダジャレを言いながら、「古代蓮の里」の一角にあるうどん食堂に入った。うわっ、行列が。しかも、うどんの器は発泡スチロール。

「きれいな蓮の花を見た後にこれじゃねえ。場所を変えましょ」
美熟女の村民2号がゲンナリした表情でそっと耳打ちした。
全員がうなずいた。古代蓮のきれいなピンク色の花の群れと人の群れを後に、近くの「さきたま古墳群」前にあるうどん屋に行くこととなった。実は村長も一度は行ってみたかったうどん屋だった。

「元祖 田舎っぺうどん」と書かれた巨大な看板が、目に入った。「武蔵野うどん」とも書いてある。
「武蔵野うどん? 武蔵野夫人なら知ってるけど、武蔵野うどんなんて初耳だよ」
「村長、ここはうまいよ。おすすめ。とにかく見てのお楽しみ。食べてみてのお楽しみ。うどんと結婚は食べてみないとわからない」
うどん通の田吾作どんが意味ありげにニヤリとする。

「男も同じよ。食べてみたら、はずれだった。返品も効かないということもある」
田吾作どんの女房がチクリ。

ここも混んでいたが、店内は30人くらいは楽に座れそうなくらい広め。しかも、田舎の木こり小屋のような開放的な造りで、おばさんが目の前で手打ちうどんを打ち、すぐ横ではおっさん(失礼)が大きな釜でうどんを茹で上げている。その開放性が気に入った。

村長は「一番人気です」と書いてあった「肉ねぎ汁 もりうどん」(630円)を注文。それと、メニューで気になった「名物きんぴら」(210円)も注文。すぐに、きんぴらがやってきた。で、でかい! ゴボウ一本が普通のきんぴらの10倍くらいあるのではないか? 

         田舎っぺうどん③ 

田吾作どんが笑いながら、「うどんは固くてぶっといので、ゆで上がるのに10分くらい見た方がいい。その待つ間にきんぴらを食べるのが通なのです」
口の中に入れて、奥歯でカミカミ。すぐに、唐辛子とラー油が共同謀議したような辛みが口の中を駆け巡った。うまいとまずいが火花のように交互に絡み合い、それがやがて「ウマズイ」に変化していった。田吾作どんのうれしそうな顔。コップ一杯の水が不埒な村長を至福へと導いていくようだった。

もりうどんがやってきた。ご、ごつい。太さはもちろん、その圧倒的なボリュームとその長さも。肉ねぎ汁に付けて口に運ぼうとするが、切れ目がないのだ。途中、箸で切ろうとしたが、固くて切れない! 

うどんが「無駄な抵抗はよしなさい」と言っているようだ。


あまりの事態に、切るのをあきらめて、ブリッジ状態のまま、口に運ぶことにした。鰹節のよく効いた醤油ベースの意外とまろやかなつけ汁が、ぶっとくて歯ごたえ十分のうどんを引きたてている。彦作村長はこれほどのごっついうどんを食べたのは初めて。これに比べれば、あの讃岐うどんが洗練された美女に見えるほど。

まさに格闘だった。ドイツでゴムタイヤのようなロールキャベツと格闘したことは以前に書いたが、まさか平和な日本で、しかも埼玉で、このような体験をするとは・・・。ドイツと決定的に違うのは、格闘ではあるものの「うまい」ということ。山登りをした後の爽快感とでも言ったらいいのか、格闘の中に愛があるのだ。ジューシーな愛。

         田舎っぺうどん④ 

「武蔵野うどんって、実は歴史がない。ここは創業40年、この味を守っているんですよ。武蔵野というより武州うどんと言った方が近いと思うよ。秩父から北埼玉にかけて昔からある田舎うどんを、イメージがいいから武蔵野うどんとしたんじゃないかな。無添加でごつごつしていて噛みごたえが只事じゃない。ま、俳人の金子兜太のようなうどんだね。金子兜太の句を読むのはある意味で格闘だからねえ」
田吾作どんがドヤ顔で言い放った。

おおかみに蛍が一つ付いていた
曼珠沙華どれも腹だし秩父の子
梅咲いて庭中に青鮫が来ている

そんな兜太の句が頭に浮かんだ。すべてをお腹に入れると、満腹感と同時に妙な達成感が彦作村長を包み込んだ。


本日の大金言。

ごっついうどんと闘いながら人生を再確認する。何事も曖昧な日本の中で、武州うどんは貴重だ。

チキンラーメン誕生の謎に迫ってみた

 忘れもしない小学校5年の時だった。ビンボーなのに、面白いこと好きのオヤジが、妙なものを持ってきた。男兄弟三人が集まった。
「これな、お湯かけるだけでシナそばになるんだぞ。二個しかないから、仲良く食べるんだぞ」
そんなことを言ったように記憶している。
袋には「チキンラーメン」と書かれていた。
ドンブリを二つ置いて、袋からいい匂いのする茶色い乾麺を取り出し、大事なものでも扱うように、そっと入れた。やかんで沸かしたお湯を注いでいく。蓋は雑誌か何かをかぶせたように思う。
「3分待つんだ。3分たつとシナそばになる」
その3分が長かった。
「よし」
オヤジがそう言って、蓋を取ると、何とも言えないいい匂いが辺りに漂った・・・。


         チキンラーメン① 



それがチキンラーメンとの出会いだった。現在では考えられないが、高級な感じがした。その味の衝撃は頭の隅に今でも残っている。「力道山とチキンラーメン」は「巨人・大鵬・卵焼き」が表のヒーローなら、裏のヒーローだった。B級の少年だった赤羽彦作村長にとっては、「力道山とチキンラーメン」こそが、真のヒーローと言ってよかったが。

チキンラーメンが誕生したのは1958年(昭和33年)。日清食品の創業者であり、インスタントラーメン界に巨大な足跡を残した安藤百福の発明と言われている。その後、即席めんの市場が急速に広がり、テレビのCMには連日「チャルメラ」「サッポロみそ一番」など即席ラーメンが競うように流れていた。1971年(昭和46年)には同じ安藤百福が発案したと言われる「日清カップヌードル」が登場、即席めんは世界中に広がっていった。

で、チキンラーメンを広めたのは安藤百福であることは間違いないだろう。その偉大な功績については誰も異存はないだろう。問題は「安藤百福の発明」なのかどうか、ということだ。

というのも、いまだに根強く、台湾出身の実業家でもあり第34回直木賞作家でもある邱永漢のサゼッションによって、「チキンラーメンが誕生した」という話が囁かれているからだ。邱永漢自身もエッセイの中で、香港にお湯をかけて食べる乾麺があって、その話を同じ台湾出身者で親交のあった安藤百福にして、商品化のヒントにしたらどうか、というようなことを話したと書いている。
それが、そのままチキンラーメンと全く同じものとは言えないが、何らかのサゼッションを受けたのは間違いない、というもの。そのあたりから、「即席ラーメンの発案者は本当は邱永漢だ」という説が流れたりしている。

安藤百福は1910年生まれ。邱永漢は1924年生まれ。安藤の方が一回り以上年長である。チキンラーメンが世に出たのは1958年だから、このとき安藤は48歳、邱は34歳。
安藤は自伝などによると、戦後、様々な事業を起こしては失敗し、一念発起。、「ラーメンの普及」に勝負をかけて、自宅の庭に、作業小屋を建てて、試行錯誤を繰り返して、麺を油で揚げる「油熱乾燥法」を発明したという。そのヒントとなったのは、たまたま母が油で天ぷらを揚げていたことだったという。

そこには、邱永漢のサゼッションは出てこないし、香港の乾麺の話も出てこない。安藤の独創が強調される内容となっている。伝説や神話が誕生する過程には様々な要因が入る。キリストや釈迦や最近では毛沢東など偉人にはあり得ない奇跡がいつも付いている。

伝説は伝説のままにそっとしておくのもいいかもしれない。しかし、真実を追及したくなるのも村長の哀しいサガである。1958年当時、邱永漢はすでに直木賞作家であり、作家としても売れっ子となっていた。安藤は年長とはいえ、必死に生き残りを模索していた時期。二人の交友がどの程度深かったのか、当人同士にしかわからない部分も多い。

あくまでも推測だが、安藤が香港のお湯で食べる乾麺の存在を知らなかった、と考えるのは不自然だろう。つまり、チキンラーメンがまったくの安藤の独創だった、と考えるには状況証拠が不足していると思う。安藤自身は、その後も邱永漢を大事にしたという。これで、十分だと思う。世の中には100%はない。


         チキンラーメン④ 


で、久しぶりに、スーパーで「チキンラーメン」(88円)を買ってきて、昔と同じように、ドンブリに入れて、熱湯をかけて食べた。昔と違うのは生卵をのせたことと、海苔、刻みねぎを乗せたこと。うまい。昔よりも、味がちょっとだけまろやかになったようだ。このうまさは、美食にあふれた現在でも、掛け値なしだと思う。同じ日清食品のカップヌードルよりもうまさのレベルが2段階ほど上ではないだろうかこれが、戦後の日本で誕生したこと、その事実がすべてを超えている、そう思った。


本日の大金言。

即席めんの原点「チキンラーメン」を世界遺産にすべきである。

真珠の耳飾りの少女と食べたカルボナーラ

 「ねえ、上野行ってみない?」
美熟女の村民2号が、猫足で近寄ってきて、耳元でささやいた。
こういう時は、大体ロクなことはない。
「フェルメールを見たいの。2年前に見た牛乳を注ぐ女、よかったでしょ? 今度は美少女よ。あなたのス・キ・ナ」
最後の三文字をやけに強調したのが癪に障るが、さわらぬ神に祟りなし、だ。

「で、昼食は精養軒で。ビンボー生活もいいけど、たまにはリッチに行きましょ」

実をいうと、「真珠の耳飾りの少女」は彦作村長自身が一目会いたかった作品だった。先々月のパリ外遊で、ルーブルにもフェルメールの「レースを編む女」が展示してあった。

フェルメールは17世紀を代表するオランダの画家だが、生涯描いた作品は40点にも満たない。それも有名なのはほとんどが10号以下の小品。それが、今、世界中の絵画ファンを魅了し続けている。

精養軒で昼メシ、というのは気になったが、この際、細かいことはわきに置いといて、と。

上野の森にある東京都美術館。リニューアル記念としてオランダの「マウリッツハイス美術館展」を開催していた。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」はその目玉作品として、さまざまなメディアで大きく取り上げられてていた。

黒をバックに青いターバンを巻き、耳にはさり気なく大きな真珠。黄金色の民族衣装を着て、半身のポーズで振り向くようにこちらをジッと見つめる少女。そのあまりにエキゾチックな佇まい。何かを訴えるような蠱惑的な目と無防備な口元・・・。17世紀の天才が描いた、その切り取られた一瞬が時空を超えて世界中のファンの心臓を鷲づかみにし続けている。

平日の午前、天候も小雨だというのに、美術館に到着すると、「待ち時間40分」の立札。

          都立美術館フェルメール② 

「わたしはモナリザよりこっちの方が好き。むかしは確か『青いターバンの少女』と言わなかったかしら。フェルメールが最後まで売らずに手元に置いていたのがこの作品なの。よほど愛着があったのね」
少女をとっくの昔に卒業した村民2号は、なぜか遠くを見つめるような目をした。こ、こわい・・・。こういう時は言わせるだけ言わせといたほうがいい。

少女の前は行列ができていた。村長と村民2号は「急ぐ人はこちら」という遠目で眺めるルートを選んだ。それでも、少女からは2メートルも離れていない。小品の中の生の少女がこちらをじっと見つめていた。確かに自分だけを見ている。ここにいる全員がたぶん同じ感覚で「自分だけを見つめている」そう思っている。もしも彼女が女優だったらすごい女優になっていただろうな。これが1665年頃に描かれたものだとは・・・奇跡としかいいようのない瞬間。村長の心にある種の切なさがかすめていった。

「背景の黒はたぶん運命の暗示だろうな」
「私の想像だけど、彼女はフェルメールの意に反して、売られていったんじゃないかしら」
「どこへ?」
「永遠という死の国によ」
「ふーん、死が調味料というわけか」
「その隠し味とそこに奇跡的に浮かんだ一瞬のきらめき。それを天才が塗り込めることに成功した。少女は永遠の生け贄というわけよ。全人類のシンボルとしての。ぼけが始まった村長には永遠にわからないでしょうけどね。あまりに哀しすぎる生け贄だけど」

精養軒での昼食は「グリルフクシマ」ではなく、東京文化会館2階の「フォレスティーユ精養軒」で。村長は一番安い「スパゲティカルボナーラ」(1000円)を注文。村民2号は「マカロニグラタン」(1000円)。「たまにはリッチ」のはずが、気分だけリッチに、に変わった。

         上野精養軒・カルボナーラ 

とはいえ、精養軒というだけあって、黒服もウエイトレスも物腰が行き届いていて、食べログでは辛口の感想が多いが、村長は「さすがだよ」と思った。さり気ないサービスを高ビーと取るか、洗練と取るか、食べる人の通ってきた感覚次第である。

夏目漱石も通った明治5年創業の老舗中の老舗西洋料理屋の流れで、気分だけはリッチにカルボナーラ(このあたりがおかしいが)。濃厚だが、そうくどくはない卵と生クリームをベースにしたソース。麵は特別なものは感じられない。
「真珠の耳飾りの少女」が頭の中に残像として残ったまま、カルボナーラをクルクルさせて口の中に運ぶ。老舗の味は余分なものがない。真珠の耳飾りの熟女がにっこりと微笑んだ。


本日の大金言。

フェルメールの後の食事は質素の方が無難だ。自分がバカに見えるから。

こんなのアリか「あんこ道」達人も脱帽の小倉ソフト

 蔵の街・栃木市でジャガイモ入り焼きそばをすっかり堪能した赤羽彦作村長は、メーンストリートをぶらぶら歩くことにした。ただぶらぶらもいいが、もう一つの目的がちゃんとあった。「冨士屋」の小倉ソフトである。

         栃木市・小倉ソフト① 

何を隠そう。彦作村長は麺類はもちろんだが、和菓子、特にあんこものには目がない。一時期、あんこ道(そんなものがあるかどうかは不明だが)に入れ込むあまり宮仕えをやめて和菓子職人への道を本気で歩もうかと思ったほどだ。
人生は理不尽、運命は非情で、その間にぎっくり腰を繰り返して、腰痛ヘルニアになってしまった。そのために、村民2号から、「腰痛の爆弾を抱えて根気のいるあんこ職人になれるはずないでしょ。バッカみたい」と冷たく言い放たれてしまったのだ。

腰痛ヘルニアのあんこ職人、キャッチフレーズとしては感動を呼ぶものがあるが、現実的には不可能かもなあ。そう思い直して、完治するまでの間は断念となってしまったのだった(まだ完全にあきらめてはいない)。

その分、食べるほうのあんこ狂いに拍車がかかった。特に豆大福には熱を上げた。東京の三大豆大福といわれる虎ノ門岡埜栄泉、護国寺の群林堂、原宿の瑞穂は売れ切れ御免なので、わざわざ午前中にその近くで仕事を作り、仕事が先なのか、豆大福が先なのか自分でもよくわからなくなるくらい通った。

村長の好みは虎ノ門岡埜栄泉、瑞穂、群林堂の順だった。虎ノ門岡埜栄泉は大きさが普通の豆大福の倍くらいあるが、柔らかな餅と脳天がツーンとしびれるようなこしあん、赤えんどうのつぶやき、その絶妙なハーモニーが「これぞ豆大福のキング!」と叫びたくなるほど特筆もの。冗談ではなく、そのまま失神するくらいの感動を覚えたこともあった。

それに匹敵する感動は、その昔ある高名な作家を担当していた時にシャトートロタノワ1995年ものを飲んだ時くらいだ。脳が本当に夜空に向かってジーンとしびれてしまったんだ。す、すまん、つい自慢してしまった。その罰が当たって、今ではすっかりビンボーになってしまったが。


今や村長の好みの街の一つとなった栃木市。「歴史と文化のある街には必ずいい和菓子屋がある。逆説的に言うといい和菓子屋は歴史と文化のない街には存在しない」。

さて、冨士屋は創業が昭和17年。今川焼みたいな「志まんやき」が知る人ぞ知る名物で、とにかくぎっしり詰まったあんこのうまさは脱帽もの。こしあん、つぶあん、うぐいすあん(各110円)、白あん(120円)など。

小豆はあの北海道十勝産のエリモ小豆を使用。しかも、あんこを作れるのは代々当主のみという一子相伝のワザを今でも守り続けている。もちろん、添加物などは使っていない。小豆と水と塩のみ。手間ひまを惜しまずじっくり煮込んでいく。

          栃木市・小倉ソフト③   

で、この店の小倉ソフトが絶品なのである。村長の好みはカップ(350円)ではなくコーン(315円)。小豆を練り込んだソフトクリームに寄り添うように粒あんがどーんと乗っかっている。まるで年上の美人女房みたいに。この粒あんがあんこマニアの彦作村長をして、「参りました」とひざまずきたくなるほどうまい。

エリモ小豆の粒あんが口の中でとろけるよう。バニラの香りがする自然な甘さが、ソフトクリームに練り込まれたこしあんとともに、口中の粘膜という粘膜に愛をささやきかけてくるようだと表現したくなる。
オーバーではなく、その幸せ感たるや体験した人でなければわかるまい。もっともあんこが苦手という人には猫に小判、豚に真珠、政治家の耳に念仏だが。

梅雨の合間の夏の強い日差しが、店の前の縁台に座ってペロペロしているバカ顔の彦作村長にもろに降り注ぐ。他のお客も一心に小倉ソフトを味わっている。永田町では消費税10%がほぼ決定しているというのに。福島では第一原発4号炉の再爆発の危険が高まっているというのに。


本日の大金言。

世の中がどんなに動いても、あんこ職人の底力にかなうことはないだろう。


ミスマッチ? ジャガイモ入り焼きそばと熱い再会

 「ジャガイモ入り焼きそば? 何それ、マズそー」
ジャガイモが入った焼きそばがこの世に存在していることを初めて知ったのは6年前のことだった。たまたま栃木市を散策していた時のこと。

栃木市は「蔵の街」として売り出していて、まだ宮仕えだった彦作村長がふらりと立ち寄った。メーンストリートには歴史のありそうな見事な和蔵が散在していて、スケール的には福島県の喜多方市や埼玉県の川越市ほどではないにしても、こじんまりとして、その奥ゆかしい佇まいが村長の好みだったのである。

その和蔵の中で、異色な大正時代の洋風建築が一軒ポツネンと佇んでいた。「好古壱番館」と書かれたレストランだった。メニューには日本蕎麦もある。何を食べようか迷っている村長の目に「ジャガイモ入り焼きそば 500円」とう文字が飛び込んできた。

珍しいもの好きの村長が、「これに決めた!」と言ったところ、美熟女の村民2号が、不遜にも吐いた言葉が冒頭の「何それ、マズそー」というものだった。500円という安さも気に入った。

ジャガイモと焼きそばの相性については、たぶん十人中八、九人は首を横に振るだろう。村長も本音をいうと、ヘンな味だろうな、と思っていた。だが、食べてみると、これが「ん?」が次第に「うーん」となり、ついには「う、うめえ」に変わるのに時間はかからなかった。

ゴロッゴロッと入っているジャガイモがソースをベースにした焼きそばとミョーに絡み合う。ジャガイモの甘みが焼きそばに魔法でもかけているかのように、1+1=3になっている。ミスマッチのはずがラブマッチ。富士宮、太田、横手という日本三大焼きそばとは明らかに違う、クリエイティブな焼きそばの発見に村長は小躍りせんばかりだった。

「栃木では昔から焼きそばというとジャガイモが入っているのが当たり前なんです。え、東京じゃジャガイモが入ってない? そっちの方がおかしいよ」

店の常連客から同情と軽蔑に近いまなざしを浴びたのも驚きの経験だった。栃木では常識が通用しない。自分たちの非常識を棚に上げて、村長と村民2号は帰りの車の中で、うなずき合ったのだった。

那須高原で「ウマズラ村」時代の同窓会を終えて、その帰りに、栃木に立ち寄ろうと思ったのは自然の成り行きだった。今回は元祖の「大豆生田商店(おおまみゅうだしょうてん)」に寄ろうと思った。しかし、午後3時を過ぎていて、休憩に入っていた。「好古壱番館」も「こうしんの店」も悲しいことに休憩時間。ク、クヤジイ。クラの街で目の前がマックラとは・・・。

         栃木市・じゃがいも焼きそば② 

捨てる神があれが拾う神あり、とはよく言ったもので、途方に暮れる彦作村長の乾いた目に、「ジャガイモ入り焼きそば」の文字が飛び込んできた。レトロな店構えで「四次元ポケット 静」という看板。四次元ポケット? ドラえもんファンだとしても、ヘンな店だなあ、大丈夫かな?というのが最初の感想だった。しかし、この際、ぜいたくを言ってる場合ではない。

ガラガラッと戸をあけて、中に入った。懐かしい昭和の世界がそこに広がっていた。広めの店内。インテリアとして置いてある古時計もスクーターも「味の素」や「江戸むらさき」の看板もすべてが昭和の世界へとつながっている。

気に入った。老犬が二匹寝そべっていたことも犬猫好きの彦作村長の世界に近いかもしれない。すぐに「ジャガイモ入り焼きそば」(680円)を注文。塩焼きそば、しょうゆ焼きそばにも触手を動かされたが、残念なことに胃袋は一つしかない。

うまい水を飲みながら、待つこと15分ほど。かなりのボリュームで待ち人がやってきた。680円という値段はかなり高め。しかし、目の前にあるのはそれを納得させるに十分だった。キャベツ、にんじん、ピーマン、タマネギ、それに豚肉。紅ショウガが彩りを添えている。ジャガイモは思ったよりも少ない。

           栃木市・じゃがいも焼きそば① 

意外にあっさりした味付け。ソースのストレートさが奥の方に隠れていて、ダシのきいた何とも言えない旨味がじんわりと口中に広がっていく。新鮮な野菜と豚肉がたぶんラードで炒められ、それにもちもちと歯切れのいい麵がうまい具合に調和している。うまい。焼きそばでこれだけの味、料理人はかなりの腕なのだろう。ジャガイモの少なさが気になったが・・・。

「ソースは自家製なんですよ。ジャガイモが少ない? きっとマスターの気分だと思いますよ。たまたま今日は少なくしたんでしょう」
店員なのかきれいな女性が、笑いながら言った。

そうか、そうだったのか。赤羽彦作村長は、ジャガイモのようなお顔である。共食いを防ごうとしたのだろうか? マスターは出てこなかった。そうか、この店の名前は「四次元ポケット」だったっけ。常識が通用しない街の常識に意味がない空間。彦作村長は意味もなくうれしくなってしまった。


本日の大金言。

焼きそばにジャガイモが入っているのは朗報かも。明治がアンパンとともに始まったように。

          栃木市・じゃがいも焼きそば④ 





那須高原で250年前の十割そばに出会う

「ウマズラ村時代」の幼なじみ11人との一夜は、様々な記憶が突然よみがえってきたり、自己検証という意味でも面白い体験だった。今の赤羽彦作とティーンエージャーだった赤羽彦作の時空を超えた交錯。146センチ、体重36キロ。かなりのチビだった3年7組の、「ひょっこりひょうたん島」や「シャボン玉ホリデー」好きの孤独な少年。ビートルズやアメリカンポップスに夢中だったあの時代。まさに忌野清志郎の「トランジスタラジオ」の世界が薄荷の匂いとともによみがえる。

そこに確かにいたのに、そこにいなかった感覚。安ワインを飲みながら、夜中の一時くらいまで、「こんなこともあった」「あんなこともあった」「へえー、全然記憶にないよ」。濃淡はあるものの、全員がこんがらかった記憶の糸をたぐって、失われた足跡を確認しあう・・・。

で、本題。翌日、那須高原で昼食を取ろうということになって、なかなか雰囲気のある一軒の古民家に入った。「手打ちそば工房 五色庵」と染め抜かれた紺地の暖簾。「会津磐梯手打ちそば」という文字も見えた。那須に来て、会津とは・・・。


          那須・五色庵③ 


正直にいうと、今回は蕎麦のメッカでもある栃木の蕎麦を食したかったのだが、よほど会津に縁があるのだろう、ハッと気が付いたら、会津の蕎麦屋。あいつはあいづであいそをつかす。あいすずきのあいづのアイズ。あいがあってもあいずがなくてもあいづにあいつはあいそをつかす。そんなくだらない言葉遊びを楽しんでいた報いかもしれない。

250年以上前の山形の庄屋の屋敷をそのまま移築したそうな。あまりに見事なその時代建物に、村長一行は、しばし感嘆の声を上げる。広々とした店内だが、時間が昼飯時ということもあって結構込み合っていた。

天井が吹き抜けになっている囲炉裏の中央にある20人は優に座れそうな座席に案内された。藍染の作務衣姿の女性店員のてきばきとした対応は好感が持てる。

彦作村長は皿そば(もりそば)を注文。メニューを見て1100円という高い値段設定にちょっと動揺しながら、悲しいかなそれが一番安かったことと、ソバ屋の基本中の基本でもあるのがその理由だった(ウソではありません)。

他に辛み大根のすりおろし「高遠そば」(1500円)、天ぷらそば(1600円)、にしんそば(1500円)など厳選されたメニューが並ぶ。

村長は宮仕え時代にかなりの蕎麦屋を回ったが、銀座1丁目の「流石」のもりそば(1000円)が一番高かった。それなりにうまかったが、この店はそれよりも100円も高い。なんということだ! 

100円が賞賛となるか落胆となるか。B級グルメの「食い意地」として、ここはひけない。

待つ間、他の蕎麦屋ではないサービス、見事なキュウリが出された。この店のもてなしだそう。味噌(たぶん会津味噌)を付けて口に運ぶと、さわやかなキュウリの旨味と味噌がいい感じでノドを通って、空腹の胃袋へと滑り込んでいく。この手があったか、村長は感心しきりである。

皿そばがやってきた。東京の老舗・藪蕎麦などのもりよりも盛りがいい。会津坂下の玄そばを臼で挽いた10割そばだそう。思ったよりも細めで色白の美人。好感。いいそば特有の香りがする。これも好感。


          那須・五色庵② 


食感はつなぎのない10割そばのためだろうコシがあまりなく、ノド越しがやさしい。技術がかなりのレベルであることはわかるが、村長は二八そばが好みなので、このあたりは「ま、こんなものだろうな」という感想。人数が多かったせいか、エビ天とインゲン天をサービスに出してくれたのはちょっとしたサプライズ。岩塩(だと思う)で食べたが、大変おいしかった。

B級グルメを標榜するビンボーな彦作村長としては少々忸怩たるものもあるが、建物の凄みと、店員さんの気配り豊かな対応などを加味すると、この高い値段設定も納得するしかない。村長は250年の時をくぐり抜けた縁側のテカリにある種の感動を覚えたことも添えておきたい。


                那須・五色庵① 


こうしてウマズイ村の同級会は那須高原の青い空と白い雲とともに「FIN」となったのだった。赤羽彦作村長は「街の灯り」のチャプリンのような気分で、腰痛ヘルニアを抱えながら、ひょこひょこと去って行った。


本日の大金言。

高級ソバと立ち食いソバ、そのどちらも同時に愛することは可能かもしれない。

土砂降りの中、伝説のラーメン屋を探し回る

「 ウマズイめんくい村」には今は明かせない多くの謎がある。その一つが「ウマズラ村」の存在だ。

赤羽彦作村長が紅顔可憐な幼少のみぎり(?)、ウマズラ村に一時疎開していたことがある。遠いとおい昔の話だ。セピア色のどこか薄荷の匂いがするチクチクするような思春期の思い出。

ある日、そのウマズラ村から一枚のハガキが届いた。「久しぶりに3年7組で歓談しましょう。懐かしい顔が待っています」。幹事はスズキキヨコ。キュートだったクラスの人気者・スズキキヨコの姿が脳裏をよぎった。

彦作村長は、行こうかどうか迷ったが、ある意味で、自分の原点でもある「ウマズラ村」。激務の宮仕えを終えたこともあり、村長は、「そうだ、京都へ行こう」ではなく、「そうだ、那須高原へ行こう」とつぶやいてから、出席にマルを付けたのだった。場所が那須高原の山荘だったからだ。

天気予報は雨マーク。午後3時半にJR黒磯駅前で待ち合わせ。村長は馬車ではなくポンコツティーダを北に向けて走らせた。ウマズイめんくい村を早めに出た。この機会に黒磯駅近くにある伝説のラーメン店に立ち寄ろうと思ったからだ。

黒磯板室インターが近づくにつれて雨は激しくなり、インターを出る辺りでは、ほとんど土砂降りになっていた。村長は駅前の有料駐車場に車を置くと、メモ見た。「宮町 ラーメン なかよし」。

時計を見ると、午後1時半を少し回っていた。昼の営業が2時までなので、だいじょうぶだろう、と高をくくっていた。ビニール傘を広げて、外に出る。雨がいきなり殴りかかってくるようだった。

「なかよし」が見つからない。誰かに聞こうと思っても、歩いている人がいない。洋服店や煙草屋に飛び込んで声をかけても誰も出てこない。酒屋に入っても人の気配がない。時間が次第に2時に迫ってくる。ジーンズはむろん長袖シャツから肩から下げたリュックまでビショ濡れで街中を歩き回る。

10軒目くらいで、ようやく老夫婦が出てきて、「ああ、あそこかな?ちょっとわかりづらい場所だけど」といいながら、簡単な地図を書いてくれた。

あった。こんなところに、と言いたくなるほどの殺風景な場所に「昔ながらの懐かしい味 ラーメンの店 なかよし」という看板が。

          黒磯・なかよしラーメン② 

時間は1時55分。確かにどこか懐かしい匂いのする赤いノレンが雨と風でめくれている。入ると10人ほど座れるカウンターと座敷に大きなテーブルが二つ。カウンターとそのまま接している厨房に小柄な女性が一人。店主だった。

「ええ、全部一人でやってるんですよ。ここでラーメンを始めたのは13年前。ちょっとブランクがあって、再開したんですよ。私には昔のラーメンしか作れませんからね。スープもチャーシューも全部手作りです。化学調味料とか使うとその時はうまく感じても、後味に変な感じが残りますからね。スープは鶏ガラ、カツオ、昆布など十数種類入れてる。他は? 秘密です(笑い)」

あと3年で70歳になる、といって昔はそうとう可愛かったろうな、と思わせる童顔で笑った。

迷わずラーメン(中細)600円を注文。村長のラーメン仲間から「40年ほど前に栃木那須湯本で名をはせ、その後閉店してしまった『こだま食堂』の流れをくむ中華そばだよ。あそこは絶対に行くべし」とすすめられた店の定番ラーメンである。

「着替えはあるんですか?」
「体温で乾かすから大丈夫です」

ポツリポツリと雑談をしながら、メニューを見る。めんの太さが細めん、中細めん、太めんと3種類。他に手打ちラーメン(700円)、餃子なども。

「はい、どうぞ」
カウンター越しに、大きな真っ白の正統派中華そばドンブリがドーンとやってきた。濃いめの醤油ベースのスープ、チャーシューが2枚、それに彩り豊かに半熟卵、ナルト、海苔、シナチク・・・刻みネギがたっぷりとしたスープに浮かべられ、「おいでおいで」とささやきかけてくる。

         黒磯・なかよしラーメン① 

これだ、これだ。昔ながらのいいラーメンの佇まい。
正座してスープをひと口。最初のアタックはあっさり。しかし、次第に濃厚な中に奥行きの深いまろやかさが口中に広がってくる。今はやりのギトギトもコッテリもない。化学調味料のあの妙なうまさもない。

めんは中細だが、予想より細め。昔の中華そばのようなシコシコ感がいい。チャーシューは最近はやりの行き過ぎた柔らかさがない、やさしい柔らかさとでも言ったらいいのか、いいチャーシュー特有の遠い記憶のような甘い香りが、奥歯から立ち上ってくるようだ。

時間が時間だったので、客は村長一人。これだけのハーモニーを出すには40年という長い修業と人生が必要なのかもしれないなあ、彦作村長は、目の前の店主の顔をさりげなく見ながら、この人のくぐってきた人生を思った。しかし、当たり前の話だが、そこに届くことはできない。

「昔のラーメンしかつくれませんからねえ」

そう二度ほどつぶやいた女店主は、「どちらかというと、もう少し太いめんが好み」と言った村長に、
「次いらっしゃることがあったら、今度は手打ちラーメンを食べてください。手打ちはもう少し太いですから」
と言って、白い歯を見せた。外に出ると、雨が小降りになっていた。


本日の大金言。

昔ながら、の「昔」には苦い味もあるが、時間とともに甘い味に変わることもある。









奇跡よ起きてくれ! アイドル犬チャイ綱渡りの闘病

 本日は、ウマズイめんくい村のアイドル犬チャイの闘病生活の続報をレポートしたい。

家出していたキオの帰宅とともに、100歳の介護老人になってしまったようなチャイに変化が起き始めていた。ぐったりして食欲もなく、動物病院のヤギ顔先生も「点滴しかありません。食欲さえ出てくれば、希望の光が見えるんですけどねえ」と悲観的な話をしていたのは先週の6月27日(木)のことだった。


          ちゃい・病院① 


それが翌28日(金)夜、キオが元気な顔を見せたこともキッカケになったのだろう、ふらついていた腰も心なしかしっかりし始め、見向きもしなかった鶏肉のささみを3口、4口と口に運び始めたのだ。

11年前のまだ寒さの残る3月、美熟女の村民2号が近所の美容院から生後2か月の子犬をもらってきた。子羊みたいに白い毛がむくむくしていて、尻尾をよく振る愛想のいい子犬だった。来る人来る人に飛びついてペロペロとよくなめる。美容院では目が奥目だったので、「オクメ」と呼ばれていた。

「全部で5匹生まれて、みんなすぐ貰い手が付いたんだけど、この子だけが残っちゃった。奥目だから人気がないのかなあ」
そう美容院のママが話していた。

チャイという名前を付けたのは、キオだった。白毛に少しだけ茶色が雑じっていたことと、「チャイルド」を掛け合わせてのネーミングだった。まだ宮仕えだった彦作村長も、村民2号も「いいわね」と気に入り、近くのホームセンターで買ってきた木製の犬小屋に、マジックで「チャイの家」と書いたのもキオだった。

そのキオの顔を2か月ぶりに見たことで、チャイが少し元気になったのは不思議ではない。
「ひょっとして奇跡が起きるかもね」
「うん、ありうる」
村民2号と彦作村長は、何度もうなずき合うのだった。

だが、7月1日(日)に短い休暇を終えたキオが仕事のため都心のアパートに戻ると同時に、チャイの元気もしぼんでいったのだ。

大好きだった鶏のささみを上げても、チーズ入りジャーキーを上げてもプイとそっぽを向く。ほとんど寝たきりの生活に戻り、散歩のときだけはヨロヨロと立ち上がり、ふらふらと歩いて、近くのイチョウ公園に行く。

それが4日(水)、病院で点滴を受けた後、ヤギ先生の、
「キャットフードを上げてみてはどうか? キャットフードの方がうまくて栄養もあるんですよ。食べなかったワンちゃんがキャットフードに飛びつくこともあるんです。とにかく食べるためには何でもチャレンジしてみてください」
というひと言が事態を好転させるきっかけとなった。

「右目の方はすでに見えなくなっていますが、眼圧も25まで下がっていて、このまま固まってくれれば最悪の事態は避けられるでしょう。腎臓の値が心配ですが、その検査は次回やることにして、あとは食欲が出てさえくれればいい方向に行くんですが」


          ちゃいの食事 


家に帰った村長は、さっそくうまそうなキャットフード買ってきて、ぐったりしているチャイの鼻先に近づけてみた。すると、チャイの乾いた鼻がぴくぴくして、何かに目覚めたかのように食べ始めたのだ。「まぐろのうまみ味と鶏のささみ味」の少々高価なドライフードを口に運んでいく。村長と村民2号は手と手を取り合って何度も何度も飛び上がった。手を握り合うことなどここ数年ほどなかったことだ。

それ以来、食欲がどんどん湧いてくるようだった。チャイ、がんばれがんばれ! 村長はチャイの耳元に何度も語りかけるのだった。

奇跡が起きるかもしれないぞ。村長が近くの神社に行って、お賽銭を奮発して、「チャイの回復」を祈願したのはいうまでもない。大好きな酒立ちもする覚悟だった。

本日の大金言。

希望は何にもまして人間を勇気づける。いわんや、イヌにおいても。

賊軍会津のイメージ変えた「幸楽苑」のラーメン維新

 「コウラクエン」と言えば、ひと昔前までは、「巨人の後楽園」という連想だったが、いまや「幸楽苑」と答える人が多くなった。そのくらい「中華そば290円」の衝撃は大きかった。

戦略とはいえ、普通ならあり得ない価格設定だ。しかも味が庶民の舌をとらえて離さないほどのレベル。北は青森から南は兵庫までほぼ日本列島の3分の2を制覇し、現在店舗数も470店にまで膨れ上がり、会長兼社長の新井田傳は「海外進出も果たし、1000店を目指す」と怪気炎を上げている。


          幸楽苑② 


感心するのはどの店舗に入っても、店員(アルバイトも含む)がテキパキと動き、インテリアも含めて店内の雰囲気がすっきりしていて気持ちいい。だらけた部分がほとんどない。これだけの規模のラーメンチェーンで、これだけ規律を統率しているは凄いことだ。ちなみに業態は違うが、クロネコヤマトも社員のマナーがサービス業に徹底していて内部規律がしっかりしていている。
こちらは小倉昌男というカリスマ経営者が長年、巨大な権益を持つ国土交通省と戦ってきたその敢然たる姿勢が、現在も社内に引き継がれているからだろう。

赤羽彦作村長の祖先は会津藩の下級武士だが、幸楽苑のルーツも会津にある。昭和29年(1954年)、会津若松市内に「味よし食堂」という名前で創業。それが昭和45年(1970年)「幸楽苑」に名義変更。その後、郡山市に本部を移転。全国展開に乗り出し、現在へと続いている。

彦作村長はその昔、まだ会津若松市内で数店しかノレンを下げていない時期に、「幸楽苑」によく足を運んだ。醤油ラーメンが特に好きだった。大きなドンブリに太めの縮れ麺、スープは鶏ガラ中心だったと思う。チャーシューも大きくて柔らかくてジューシーだった。うまさが別格だった。

値段は現在のように安くはなかったが、透き通って、いい感じに脂が浮いているスープ、つるっとして腰のある太麺、チャーシュー、シナチク、すべてがまろやかなコクに裏打ちされていて、当時、会津では一番人気だった「南京」のラーメンよりも高級な感じがして、カウンター席に座るのが無上の楽しみだった。

今でも、あの味に匹敵するラーメンに出会うことは少ない。店舗数が増え、「会津っぽ」になってからは、残念ながら、味がかなり落ちていたように思う。

会津は戊辰戦争で「賊軍」の汚名を着せられ、悲惨と苦難の道を歩んだが、東大や京大の初代総長を務めた山川健次郎や来年のNHK大河ドラマの主人公・山本八重(新島八重)、ソニーの創業者・井深大、野口英世,、小室直樹など偉人も多く輩出している。
会津人はよく言えば頑固、悪く言うと偏狭で、盆地性格特有の、中央や成功した人への一種独特の妬みが強いと思う。

「あいつは何様だと思ってんだ?」この言葉を何度聞いたことか。
「会津を愛して憎む」という感情をわかる人は案外少ない。会津出身で成功した人は、会津から出た人が多いのも特徴だと思う。

さて、村長は久しぶりに「幸楽苑」に行ってみた。幸楽苑のせいではないが、一度体調が悪いときに行って、胃が少々おかしくなったことがあり、足が遠くなっていたのである。

黒をベースにしたモダンな建物、開放的な店内、テキパキ動く店員・・・。「中華そば」(290円)に「とろーり半熟煮卵」(100円)、それに「餃子」(290円)を注文した。


         幸楽苑① 


メニューが随分と豊富になっている。「原点の味」を知っている村長にとっては、現在の幸楽苑は別物だと思う。しかし、これだけ多くの庶民に愛されている姿を見ると、経営陣の戦略は素晴らしいと言わずにはいられない。

「偏狭な会津」から飛び出すことによって、全国的なラーメンになった幸楽苑。
「幕末の会津は本来の会津ではない」と考えている彦作村長にとって、戊辰戦争の怨念が未だに色濃く残る会津のイメージは好きではない。

幸楽苑はその一種暗いイメージを見事に変え、西は兵庫まで店舗展開している。その開かれた戦略と戦術に素直に拍手を送りたい。幸楽苑はたかがラーメン、されどラーメンの世界で「味と価格の維新」を成し遂げているのだ、と思う。

中華そばはこの値段でこの味とは、と感心するほどのうまさ。つるつるして歯ごたえのいい細麺、すっきりした旨味の深い透き通ったスープ、チャーシューも薄いが3枚ほど入っている。煮卵はふつう。餃子もそれなりの味。すべてがバランスよく、価格よりも2~3割上の満足感がある。

勝手な推測だが、幸楽苑は「幕末の松平容保の会津」ではなく、赤羽彦作村長が尊敬してやまない「蒲生氏郷の会津」を心の奥で標榜しているように思えてならない。


本日の大金言。

幸楽苑を批判するのは容易だが、この値段でこの味とこの雰囲気はそうは出せない。



発見、3時間で終わりの熊本ラーメン屋

 「村長、凄いラーメン屋さんの情報を仕入れたわよ」
ある日の午後、いつものように彦作村長がふんどし一丁でラジオ体操をしていると、美熟女の村民2号が、小鼻をぴくぴくさせながら、近寄ってきた。小鼻をぴくぴくさせるときは何かイケないことが起きることを村長は経験的に知っていた。

「ん? なんだい?」
村長は鷹揚をよそおって、さりげなく反応する。
「わたしの絵描き仲間のスーさんの情報なんだけど、北川辺に一日たった3時間しか営業せずに、その前に麺とスープがなくなったら暖簾を下げちゃうんだって。女性が一人でやっていて、コアなファンが店を支えているんだって」

「へーえ、今どき3時間とはそりゃスゴイね」
村長は女性が一人で切り盛りしていることにも心が動いた。


北埼玉・北川辺の古河寄りの県道沿いに、その店はあった。うっかりすると素通りしてしまいそうなほど目立たない作り。対面にはパチンコ屋が。こんなところに、と感心したくなるほど殺風景な場所。

そこに「熊本ラーメン みち丸」という少々色あせた暖簾が下がっている。
タイムスリップして、昭和50年代の田舎町にでも来てしまったような気分。


          熊本ラーメン・みち丸② 

ガラガラっ入ると「いらっしゃーい!」と元気な声。4~5人くらいしか座れないカウンター席に座る。簡素なテーブル席もある。奥が厨房になっていて、おてもやんが顔を出した。大山のぶ代さんの妹ではないか。磁石のように何でも引き付けそうな明るく元気なおばさんが、カウンター越しに水を出す。

メニューを見るととんこつラーメン(並盛)700円、大盛800円、特盛900円。それにおにぎり(めんたい)1ケ100円、うめ1ケ100円と書いてあるだけ。

「うちは豚骨だけなんです。スープは毎日作っていて、なくなったらお終い。麺も熊本から取り寄せていて、こっちもなくなったらおしまい」
そう言ってカラカラと笑う。
「化学調味料や添加物は使ってないので、結構、手間ヒマがかかるんですよ。豚骨とニンニクをベースにして、じっくり煮込んでいるので、コラーゲンも本物です。ええ、仕込も全部一人でやってるんですよ。だから、営業は一日3時間が精一杯です」

狭い店内にあの名曲「おてもやん」が流れているようだ。
村長と村民2号は珍しく同じメニュー「とんこつラーメンの並」を注文した。

化学調味料を使っていないラーメンをマニア語で「無化調ラーメン」というが、化学調味料や添加物をごっそり使っているラーメンの味に慣れてしまうと、無化調が物足りなく感じてしまうこともある。味覚の慣れはおそろしい。

村長が昔通っていたラーメンの激戦区・門前仲町近くにも「こうかいぼう」という無化調のラーメン屋があるが、いつも行列ができる都内でも有数の人気店だった。

宮仕え時代の村長もよく通ったが、正直、うまいのはうまいが(特にチャーシューは絶品)、少々物足りなさを感じたりもした。
レジでお金を払ってお釣りをもらうとき時に、きれいな女性店員さんが、両手でそっとお客の手を握ってくれるのもよかった。村長などはそのひそかな楽しみのために、わざと1万円札を出したりしたほど。

         熊本ラーメン・みち丸①  

さて、おてもやんの「とんこつラーメン」。熊本ラーメンの特徴は、博多ラーメンと同様に白濁した豚骨スープだが、違うところは麺の太さ。博多が針金みたいに細いのに対して、もう少し太い。替え玉がない、紅ショウガもない。(替え玉がある方が珍しいのだが)。肥後もっこすみたいで、好感が持てる。

鮮やかな刻み小ネギがスープの表面を半分覆うほど乗り、切り昆布も負けじと乗っている。そこに自家製チャーシューときくらげがほどよく乗っている。煮卵は忍者のようにひそんでいる。スープの量は正直もう少しあった方がいい。

ズズズとすすると、手作り感が口中にジワジワジワと広がってくる。麺の硬さがちょうどいい。かなり癖がある味かと思ったが、むしろあっさりしている。

「ホント、見た目は濃厚とんこつだけど、さっぱりしているわね。これが本当の自然な味なのね。なんだか美人になりそうな味ね」
上州生まれの村民2号までが、おてもやんになっている。目がトロンとしているのが気になる。

チャーシューは好みが分かれるところ。村長はもう少し柔らかい方が好きだが、村民2号は違う意見。

「このくらいの自然な固さがちょうどいいのよ。ワインもそうだけど、本場フランスのいいワインは最初はツッケンドンに思えるけど、次第にそれが奥行きの深い味わいになってくるのよ。村長は本物についてもっと勉強する必要があるわ」
おてもやんとアイコンタクトを取っている。

「この無化調のとんこつの味と匂いは、ハマる人とハマらない人にはっきり分かれると思うなあ。でもこんな場所に、こんなに志の高いラーメン屋があるなんて世の中は広いね.」
「ホントね。やっぱり日本を支えているのは女よ」
十分な満足感で食べ終わって、外に出ると、利根川からの心地よい風が、村長と村民2号の頬を撫でていった。村民2号の小鼻がぴくぴくしている。
村長の胸をこれから何が起きるか、不安がかすめていった。

本日の大金言。

巨大メディアがすべてではない。世界の真実は砂粒の中にある。




偉大なる立ち食いソバにひれ伏す

隠すものがないが、 何を隠そう、赤羽彦作村長は「立ち食いソバ」の熱烈なファンである。厳しい宮仕え時代から、仕事の合間を縫って、立ち食いそば屋の看板を見ると、飛び込んでは食し、食しては、「うむ、ここはツユがいいな」とか「これはひどい。天ぷらがうどん粉の塊みたいだ」とか「立ち食いそば屋に美人がいないのはなぜか」とか、あれこれチェックすることも無上の楽しみだった。
有楽町のガード下、人形町の飲み屋街、東京駅近くのチェーン店などなど挙げたらきりがない。

水道橋の「とんがらし」は天ぷらが最高レベル(麺はイマイチ)だし、日本橋にも贔屓の立ち食いそば屋があった。

立ち食いソバには味以外の要素もある。例えば船橋競馬場の立ち食いソバなど。昭和40年代のうらぶれた雰囲気が好きで、たまに立ち寄ったりもした。
発泡スチロールのドンブリや割り箸が無造作に落ちていたりする。地方競馬場の立ち食いソバは、味はお世辞にもうまいとは言えないが、馬券を握りしめる訳ありの夢やスッテンテンになって無残に肩を落とす姿が隠し味となっているためか、都心のきれいな立ち食いとはひと味違う生身の陰影がある。それも彦作村長の好みでもあったのだ。

ここ5~6年ほどの立ち食いソバの実力は驚くべきものがある。「富士そば」や「小諸そば」などのチェーン店が始めた生そばをその場で茹で上げ、冷水にくぐして、出す。これは立ち食いソバ界の革命と言ってもいい。それまでは作り置きの茹で麺を湯に通すだけのぶよぶよ麵が多かった。今では店ごとに大きな釜で生そばを茹で上げる光景が普通になってきている。

天ぷらも揚げ立てを出す店がどんどん増えている。質が上がっているのに、値段は定番のかき揚げソバが400円前後と安い。

         ゆで太郎① 

メニューも豊富で、かつ丼やカレーライスにもハズレが少ない。村長は小諸そばと富士そばのかつ丼のファンでもある。「立ち食いでリッチな気分になりたい」時にはぜひにおすすめしたいくらいだ。400円~500円であれだけ肉厚でジューシーなとんかつには感動を覚える。タマネギと卵のバランスもよく、湯気とともに目の前に現れると、オーバーではなく「参りました」とひれ伏したくなるほどだ。ヘタなとんかつ屋より満足感がある。

デフレ不況が深刻になるにつれて、立ち食いソバだけは「負けてられるか」とばかりに歯を食いしばって、どんどんレベルアップしていくかのようだ。永田町や霞が関のインチキぶり、東電など電力会社の恐るべき無責任隠ぺい体質、巨大メディアの驕り、忍び寄る未来不安・・・そういった日本の劣化に対して敢然と庶民のソバに立つ。

「みんな、のびてる場合じゃないぞ、ソバはのびたらお終いなんだよ」と無言の声援を投げかけている。なんと「味な抵抗」ではないだろうか。宮沢賢治の雨ニモマケズ風ニモマケズの精神に近い、そんな立ち食いソバの底力に村長は改めて敬意を表したい。


さて、村長はたまに農作業に行く日本橋兜町のペンクラブの近くで、このところ成長著しい「ゆで太郎」に飛び込んだ。白地に江戸文字で「江戸切りそば ゆで太郎」と書かれたノレン。ムシムシしていたので、「冷やしたぬきそば」(380円)とトッピングで「コロッケ」(50円)、合計430円を自販機に入れる。ちなみに「かけ」は260円。

「挽き立て、打ち立て、茹でたて」を看板にしているだけあって、注文してから、呼ばれるまで12~3分ほどかかった。ここの特徴は店ごとにそば粉から生そばを作り、注文してからゆでる。大きな釜でソバをゆでているのが見える。北京原人からホモサピエンスに進化したみたいで、昔の立ち食いソバとはまるで違う。

冷やしたぬきの生命線でもある揚げ玉がかなり多めで好感が持てる。

具はワカメ、かまぼこ、刻みネギ。キツネが乗っかっているのも特筆もの。ソバは細めで江戸前。わさびがドンと控えているのもいい。だし汁は濃いめ。まずは揚げ玉とからませてひと口。これは冷やしたぬきに対する礼儀である。揚げ玉はアラレのようにつぶ玉でカリッとした歯ごたえ。

ソバはゆでたてを冷水にサッとくぐらせて出しているので、シャキッとしている。これだこれだ。わさびとワカメをからませてどんどん口に運んでいく。ツユは濃いめだが、くどくはない。

50円のポテトコロッケ(今どき50円のコロッケとは泣けてくる)にソースをかけ、きれいに食べ終えるころには、村長はすっかり与太郎と化していた。気分は木枯し紋次郎で定番のツマヨウジを口にくわえて外に出ると、梅雨晴れの太陽が、「またバカ者がひとり、ドブに落ちるぞ」と笑っているようだった。



  本日の大金言。

 立ち食いソバがある限り、日本は大丈夫だ。

         ゆで太郎②

絶品!山形のジャズ麵とのジャムセッション

 普段は民謡「会津磐梯山」などを調子っぱずれで口ずさむ彦作村長だが、隠れジャズ好きでもある。
若いころは新宿の「ピットイン」や、地下の「ふらて」などで安酒をあおって、辺りかまわずアーダコーダと無意味な議論を吹っかけては、ヒンシュクをかっていた時期もある。
ウマズイめんくい村の村長に就任してからも美熟女の村民2号の目を盗んで、こっそりと北千住の「ゆうらいく」や御茶ノ水の「ナル」に足を延ばして、ジャズワールドを楽しんだりもしている。

そんなジャジイ(ジャズ爺)な村長が、北埼玉の僻地のジャズ屋「ウッドストーリー」で妙なラーメンに出会ったのだ。ウッドストーリーはセミプロのジャムセッションやプロのジャズマンのライブを企画したり、頑張っているのだ。

4~5年ほど前、ベーシストでもあるマスターとママさん、それに娘さんが、北埼玉からジャズを発信しようとオープン、いまでは、固定ファンも増え、それなりに繁盛している。マスターとママは山形出身というのもシブい。

妙なラーメンとは、その名も「ジャズ麵」(780円)。麺好きの間では知る人ぞ知る山形・天童市の和風ラーメン「鶏中華」をベースにして、ママさんがアレンジしたもの。
村長はさっそく変なアクセントで「ヘーイ、ママ! ジャズメン一丁!」。
コーヒーとパンが大好きな村民2号は「スイングバーガー」(450円)を注文。


             ジャズ麵 


マイルス・デイビスが流れる中、お盆に載った「ジャズ麵」を賞味した。まずはスープ。山形の醤油をベースにカツオ、鶏ガラ、昆布、シイタケ、ゴボウなどで取ったダシが何とも言えない不思議な調和で、村長の舌に迫ってくる。「あなた、江戸に帰っても、わたしのこと、忘れないでね」そうささやいてくるよう。甘めだが、綿の襦袢を少しずつ脱いでいくような、シンプルな中にも奥深い情愛を感じさせるような味わい。

麺は細麺。それにチャーシューではなく鶏肉と長ネギの千切りなど野菜がふんだんに、しかも出しゃばらずに乗っている。ラーメンと和風ダシのジャムセッションがこんなにも自然に調和していることに驚く。

山形の鶏中華の老舗に何度も足を運んで作ったんですよ。ジャズ以上にこれを食べにくるお客さんも多いんですよ。村長、次はぜひ鶏味噌ラーメンを食べてください」
ママさんが愛らしい表情で言う。
山形には冷やしラーメンという絶品があるが、この鶏中華も侮れない。

「村長、何ニヤケてるんですか。私のスイングバーガーも聞いてくれる?
美熟女の村民2号がなぜかプリプリしながら、コーヒーをがぶ飲み。

「ここのバーガーはマクドナルドより全然うまい。80グラムのミートに野菜とオリジナルのホワイトソースがうまい具合に絡まってる。自家製のフライドポテトもカラッと揚がっていて、いい味よ。村長も次は鶏味噌ラーメンより、こっちを食べなさい。バーガーとバーカー、相性もいいはずだし」
 
村民2号がオーネット・コールマンだったとは・・・。


本日の大金言。

ジャズ麵と「ウマズイ」は多様な価値観が出会うという意味で親戚である。

          ウッドストーリー 

もうダメか? 村犬チャイの介護が続く

国民の意思を確認もせずに、東電の犯罪をいまだに解明もせずに、大飯原発の再稼働がとうとう実行されてしまった。

他の原発も安全を確認もせずに、ドジョウ顔で言を左右にして、次々に再稼働されるだろう。

な、なんということだ。永田町を頂点とするこの国の巨大な原子力マフィアにとって国民とはなんなのか? うすうす気づいてはいたが、結局は「自分たちイコール国民」といってるのだろう。
かつて民主党に期待した時期もある彦作村長の怒りは爆発寸前。

「こうなったら、
国会議事堂を大飯原発近くに移転しよう運動を進めるしかないのう。そしたら、国会議員の数も自然削減となるし、少しは政治が変化するかもしれない。これはいいアイデアじゃ」
村長は一人悦に入っているが・・・。





さて、本日はあちこちから心配するメールをいただいている村犬チャイの続報をお届けしたい。

「ウマズイめんくい村」のアイドル犬でもあり、麺類の諜報活動も担当していた村犬チャイ・・・。

あの元気だったチャイが6月に入ってから突然のように、まるで100歳の老人のようになってしまい、さらには、腰痛ヘルニアとぶどう膜炎だけでなく、腎臓障害まで併発していることがわかった。

つい1か月ほど前まで腹が立つほど旺盛だった食欲がみるみる落ち、こ2週間ほどは130円の缶詰を上げてもプイと横を向く。
朝晩の散歩にだけはよたよたと立ち上がり、外に出ようとする。だが、100メートルも歩くと体力が続かないのか、立ち止まったまま、石のように動かなくなる。


         ちゃい⑥  


以前はほれぼれするほど快調だったオシッコも
片足を上げようとするものの、腰痛ヘルニアのためか腰砕けになり、しゃがみこんでしまうほど。

村長は何よりもオシッコが思い通りにできないチャイの哀しみを思った。その砂を噛むような辛さが実感として理解できるからだった。

一日中ぐったりの日々が続いた。

「まだ11歳、人間の年だと60代です。まだこんなに老け込む年ではない。原因はボクにも正直よくわからない。いろんなものが一挙に来た、ということなんでしょうねえ。まったく食べなくなったら点滴するしかありません。しばらく様子を見ましょう」

動物病院のヤギ先生も驚くほどの衰弱ぶりで、2日ごとに病院に行って、点滴の日々が続いた。


          ちゃい食事 


そして、3日前の金曜日夜。家出していた娘のキオが久しぶりに帰ってきた。キオは以前のようなマシュマロ風の甘さがなくなり、キャリアウーマンのように、いい雰囲気を漂わせ始めていた。仕事で揉まれていることがいい意味で人間的な成長につながっているのかもしれない。精神的にもたくましくなっているようだった。

口のうるさい美熟女の村民2号の音程のズレた鼻歌が台所から流れている。周囲の迷惑を少しは考えてほしい・・・。
村長は娘の成長にドギマギしながら、安ワインの杯をグビグビと重ねるしかない。

「村長のブログを読んだら、チャイが大変なことになっている。オーバーに書いてるのかと思ったけど、本当で、びっくりした。日曜までしかいれないけど、散歩に付き合うわ」

キオの帰宅とともに軽い奇跡が起きた。

チャイの食欲が出てきたのである。手を変え品を変えして鶏肉をボイルしたり、チーズ入りの鶏ささみスティックを千切ってあげたり、牛乳を温めたり、1缶340円の病院食をあげたり・・・と工夫するものの少し食べるとプイと横を向く日々だったのが、5口、6口、10口と食べ始めたのだ。

私が来たから元気が出たのよ、きっと」とキオ。

「何言ってるの。私の介護のおかげに決まってるでしょ」と村民2号。

「キミらは何にもわかっとらんお尻に付いたウンチを取ってやった村長の愛情が通じたんじゃよ」と彦作村長。
 
そんな3人の会話を尻目に、チャイは面倒くさそうにドテッとなると、安酒場のオヤジのような顔になって、腫れ上がって痛々しい目を静かに閉じてしまった。

猫に追いかけられている夢でも見ているのか、ヒゲをぴくぴくさせていた。



本日の大金言。

世の中に絶望はない。まさかの奇跡が起きることだってある。

          ちゃい②
プロフィール

赤羽彦作村長

Author:赤羽彦作村長
あの!エンターテインメント新聞で記者、デスク、編集プロデューサーとして活躍。思うところあって、原発で揺れるヤポネシアを辺境から見つめ直すべく、イカダを組み、オンボロ旗を揚げ、組織を脱出。荒海に乗り出す。「B級うまいものの宝島」を目指して、櫂をガタガタと漕ぎ出すことにした。一か八か泥船となるか、間違って宝船となるか?
特に麺類と和菓子にはうるさい。「舌の上から斜めに世界を見る」などとほざいている。はっきり言ってバカの3乗である。年齢不詳。乙女座、AB型。村民を募集している。

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