こだわり支那そば、千住のイリオモテヤマネコ

ムフフフ、今回は赤羽彦作村長のウマズイ秘蔵店を特別にご紹介しようと思う。なぜか北千住「本町センター通り」。JAZZとおでんと支那そばの店である。その名も「ゆうらいく」。世界広しといえども、こんな組み合わせを長年続けているのはこの店くらいだろう。


                 北千住ゆうらいく① 


JAZZはもちろんだが、ラーメンのこだわりは半端ではない。頑固を通り越して、ほとんど「バカ」の領域に入っている。麵は自家製、スープは豚骨、鶏ガラをベースにどんこ(干しシイタケ)、トビウオ(写真)、貝柱など十種類以上の厳選素材を使用。何から何まで「いいもの」でないと気が済まない。

「商売で考えたらバカみたいですよ」と寡黙なマスターが苦笑しながら話す。しかもそれを宣伝しようともしない。マイルス・デイビスが生き返って、ここに足を運んだら、ぶっ飛んでしまうにちがいない。「こんな世界があったとは、マイルス・・・」(座布団2枚取り)。


          北千住ゆうらいく⑥ 

 
赤羽彦作村長は、宮仕え時代、北千住に「別荘」を構えていた。といっても1DKの安アパートで、家に帰りたくないときなどとか、仕事で遅くなったときのための「避難場所」という意味合いもあった。怪しい目的もないではなかったが、悲しいかな空振りの連続で、アルコール漬けの身体を横たえるだけだった。

北千住は彦作村長の大好きな街で、ルミネができ、丸井が建ち、駅前がモダンになっても、少し奥に入ると、猥雑な匂いが漂ってくる。戦後の庶民文化と人間模様がいまだに残る街でもある。下町の気風がそこかしこに歩いている。案外知る人は少ないが、今をときめく「イトーヨーカドー」はこの北千住が発祥の地である。今でもヨーカドーの古参社員にとって、北千住は聖地でもある。

そんな街だから、夜はジャス、昼はラーメンの「ゆうらいく」が生き残っているのだろう。彦作村長は月2回金曜日に繰り広げられるジャズライブが楽しみだった。ライブは今も続いている。当時は「JAZZ&おでん」だったが、6~7年前から「JAZZ&支那そば」に看板を少し変えた。

マスターは生粋の千住っ子で、落語好きの洒落者。代々洋服屋だったのをジャズバーに変えて、新宿や六本木にも負けない北千住JAZZを発信し続けた。JAZZの人気に陰りが出始めた平成に入ってからも、看板を守り続けている。口ヒゲを蓄えた一見温和な顔の奥には「たとえお客さんが一人になってもやる」というへそ曲がりの意地みたいなものを感じる。今では貴重な江戸っ子の末裔でもある。彦作村長はひそかに敬意を表して「千住のイリオモテヤマネコ」とあだ名を付けた。

ラーメン職人の修業をしていた時代もあり、腕に自信もある。最近の人気ラーメン店について、「ギトギトしたラーメンとか魚粉入りのこってりラーメンなんて、ボクに言わせれば本物のラーメンじゃない。素材もひどい」とバッサリ。そこから、「東京で一番うまい本物を作ってみせる」となっていったようだ。


        北千住ゆうらいく⑦  


35度を超える昼下がり。夜はオンザロックでJAZZを楽しむ木のカウンターに座って、「らーあ麺」(580円)を注文。ごらんのとおりの「正統派」である。麵は中太の縮れ麺。透明な脂がほどよく浮いたスープはほんのりと甘い。化学調味料は使っていないためか、一瞬、物足りなさを感じるが、やがてその奥にまろやかなうまみが広がってくることに気づく。それは厳選した素材のうまみでもある。
チャーシューは柔らかめでほどよい歯ごたえ。シナチクも自家製。ホウレンソウと白ネギ、海苔が見事な布陣で「どうだい、どうだい」とつぶやいている。英語で言うと「ゆうらいく、ミー?」

自家製麵はもう少し固めのほうが村長の好みだが、これはこれで、筋は通っている。スープまで完食した後、ほんのり甘くてあっさりした余韻が・・・。この妙な余韻は何だろう? ウマイでもマズイでもない「ウマズイ」領域とも言える。「沖縄産の赤糖を使ってるんですよ。ついでに塩も沖縄産」マスターがヒゲをぴくぴくさせながら明かす。うーむ。でもそれだけとは思えない。

彦作村長はしばし考えた後、ハッと気づいた。それはマスターの思いではないか。JAZZとラーメンへの遠い思い。甘い記憶と粋な別れ。マスターの人生までが素材となった味覚のジャムセッション。それがロン・カーターのウッドベースのような、もう一つの隠し味だと思った。



本日の大金言。

本物はさり気ない。うっかりすると、目の前にあるのに気が付かない。メディアが作り上げる行列のできる店ではない、メディアに載らないクールな店を自分の舌で感じるのもたまにはいい。

           北千住ゆうらいく③  



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竹島問題と盛岡冷麺の「ウマズイ」味わい

 「みちのくポンコツ旅」で、彦作村長が心残りだったのが岩手・盛岡に足を延ばせなかったこと。盛岡は村長が宮仕えだったころ、駅近くのレストランで「盛岡冷麺」を食べた街でもあった。冷麺は本場・韓国の冷麺しか食べたことがなかったので、「盛岡冷麺」なるものが一体どんなものか、好奇心がムクムクと湧いた。

岩手公園で石川啄木の歌碑「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」に胸を打たれて、空を見上げたままふらふらと盛岡駅近くを歩いていた。空腹を覚え、ふと我に返った。そのとき目に入ったのが「盛岡冷麺」の文字。しかも「旨すぎる味」というキャッチコピーが付いていた。

          盛岡冷麺⑦  

韓国の冷麺は金属製の冷たい器に牛で取ったスープをたたえ、そば粉を使っているために麺はグレーでゴムタイヤのように硬い。具は一般的にキムチ、鶏肉、牛肉、キュウリ、それにりんごやパイナップルなど果物も入っている。パイナップルの上にはさくらんぼがちょこんと乗っかっている。彦作村長はこの本場冷麺も好きで、夏場になると東京・上野などで、平均して年に一回くらいは食べていた。

盛岡冷麺は違っていた。器は白い陶器、麺はそば粉を使わずに、小麦粉とジャガイモのでんぷん。そのため色はラーメンのように黄白色で、のど越しはツルッとしている。歯ごたえは本場ほどではないが、かなり腰が強い。スープは韓国と同じように牛からとっていて、具も肉類、キムチ(大根カクテキが多い)の他スイカ、ナシ、りんごなど果物も乗っている。半分に切ったゆで卵なども鎮座していた。

本場の冷麺より食べやすく、確かに「旨すぎる味」だった。麵は本場と同じように押し出し麺だが、小麦とでんぷんのいい香りと牛スープのコクが余韻としてしばらく残った。いつのまにか「空に吸はれし 十五の心」が「胃袋に吸われし 三十七の心」に変換していた。それも遠い昔の話となっていた。

今回のみちのくの旅では、せっかく宮城、岩手・水沢まで行ったのに、小野小町に心を奪われてしまい、秋田・湯沢に曲がってしまった。盛岡を断念したことが悔やまれる。ウマズイめんくい村に帰った彦作村長は、通販で「盛岡冷麺」を取り寄せることにした。食い意地なら誰にも負けない。よく考えればあまり自慢できない事柄なのに、美熟女の村民2号に上から目線で取り寄せを依頼するのだった。

「竹島問題もあるし、ここはやっぱり盛岡冷麺だね」
「はいはい。了解しました。でも、作るのは村長よ。ワタシは食べる人。後片付けも村長のお仕事よ」

          盛岡冷麺④ 

そんないきさつがあって、本場・盛岡の「麵匠 戸田久」から「盛岡冷麺」(2人前340円)をお取り寄せ。台所事情もあり、ここはあまりお金をかけられない。冷蔵庫から有り合わせのベーコン、きゅうり、キャベツ、ミニトマトを取り出し、ウマズイめんくい村流の盛岡冷麺づくりとなった。

鍋にたっぷりのお湯を入れ、麺を約3分ほど茹で、冷水でよく洗ってから水切りをし、ドンブリに盛る。牛で取った冷麺スープ、それにキムチ風味スープを入れる。焼いたベーコン、きゅうり、熱湯に通したキャベツ、それにミニトマトを乗せて出来上がり。

「あら、意外。うまそうじゃない?」
「村長の料理の腕を見くびりおって」

スープは牛の甘みと豆板醤の辛みと酸味がほどよく混じり合い、なかなかイケる。麵はつるりとしていてコシが強い。いい食感だ。具のベーコンとミニトマトの甘みがいいお囃子(おはやし)となっている。1食当たりに換算すると、200円ちょっとくらいではないか。

          盛岡冷麺① 

「竹島問題も盛岡冷麺方式で解決できないものかねえ」
「盛岡冷麺ってもともとは在日の人が作ったのよね。昭和29年ころ。日本人にも食べれる冷麺を考え出したわけよ。当初は在日の同胞や本国からも朝鮮を売り渡すのか、と批判されたらしいわよ。それでも、頑張って、こうして盛岡冷麺として定着している。韓国も日本も盛岡冷麺の知恵に学べ。そう言いたいわね」
「村民2号もたまにはいいこと言うね。それはウマズイめんくい村のポリシーでもある。うまいかまずいか。その2元論ではなくて、ウマズイという多様な価値観を認める世界。曼荼羅の世界、共生の価値観ということでもある。韓国のものでも日本のものでもない。そういう視点に立てないものか。盛岡冷麺にそれを見た思いがするよ」

「ワタシたちも喧嘩ばかりしてられないわね」
「まずは足元から。後片づけ、頼むよ」
「すぐ調子に乗る。村長を先に片づけたいわよ」
領有権問題は根が深い。両雄並び立たず、ということなのか。



本日の大金言。

AKBとKARA、うどんと冷麺、パフォーマンスで紛争をあおる政治より、文化交流のほうが重いのではないか。政治家はすぐ消えるが文化は連綿と続く。盛岡冷麺、その味わい深い知恵の文化。

         盛岡冷麺⑥ 

浮世を離れて鮎寿司3カンの至福

 「村長、た、たいへん!」
美熟女の村民2号が、飛脚から受け取った手紙をもって飛んできた。3.11にもほとんど動じなかった村民2号が、口から泡を吹いている。よほどの事態が起きたに違いない。

「まあ、落ち着きなさい。チャックぐらいちゃんと閉めなさい」
赤羽彦作村長は、ここぞとばかりに、村長の威厳を見せて正座した。村長のチャックも開いていた。気を静めるためにか、大きく息をしてから、村民2号が口を開いた。
「大叔母からよ。大叔母があまり暑いんで、冥途の土産に鮎を食べたいって
その瞬間、灼熱の空が落ちてきた。


          桐生鮎① 


「やっぱり、夏は簗場(やなば)の鮎に限るねえ。彦作村長の稼ぎが悪いから、ここ2年ほどご無沙汰だったけどさあ、今年はこの暑さ。もうそろそろお迎えが来そうだから、冥途の土産にと思って、手紙を出したのさ」

上州は桐生市郊外にある活鮎料理専門店「桐生簗」。ここは桐生川沿いに店舗を構え、桟敷を組み、夏場だけ営業している。清流の音と川風が実にここちよい。浮世離れの時間がゆっくりと流れている。
生ビールを片手に鮎の塩焼き(1匹1097円)に舌鼓を打ちながら、大叔母は満足そうにうなずいている。少々小ぶりだが、備長炭で一本一本丁寧に焼かれたもの。


          桐生鮎④ 



大叔母は今年87歳になる。冥途の土産と言ってる割には、声にも張りがあり、足腰も彦作村長よりシャキッとしている。 
「叔母上、ビールはもうよろしいんじゃないかしら? お身体に障りますよ」
村民2号が、ウマズイめんくい村の台所を心配して、さりげなく言う。中ジョッキ3杯目も残り少なくなっている。

「アタシャアねえ、自慢じゃないけど、飲めば飲むほど元気が出てくるのさ。身体を心配してくれるなら、もっと飲ませろー」
こういう時は行くところまで行くしかない。大叔母からの呼び出しは平均して年に一度。カラオケだったり、カニ料理だったり、温泉だったり。そのたびに、ウマズイめんくい村は右往左往し、大叔母が帰った後は村民2号と村長は二日ほど寝込んでしまうのがパターンとなっていた。

予想されたこととはいえ、大叔母には逆らえない。彦作村長にとっても、大叔母はある種尊敬の対象でもある。飲んで笑って歌って大声で人生を楽しむ。上州女の鑑(かがみ)のような存在。村民2号にもその血は流れているが、まだ大叔母の域には達していない。

「そろそろ鮎寿司の時間じゃないかい? アタシャアねえ、これ食わないと、簗(やな)に来た気がしない。一人前3カン頼んだから、村民2号も1カンだけ食べていいよ。忘れてた。村長も食べたい?」
「いただきます」

鮎寿司一人前(1501円)が運ばれてきた。見事な昆布締めの押し寿司。鮎寿司と言えば姿のまま酢飯を詰める店が多い。琵琶湖周辺ではご飯と一緒に発酵させる「なれずし」が有名だ。


          桐生鮎⑤ 


しかし、ここは万人向きの押し寿司。まずは透き通った新鮮な鮎ネタと昆布の重なりを目で楽しみ、おもむろに口に運ぶ。1カン当たり500円ナリ。安くはないので、五感を研ぎ澄まして、貴重な1カンを隅々まで堪能する。天然の鮎はスイカの香りがする。ここは那珂川でとれた稚魚を清流で育てて、その「半天然」を使っている。調理の難しい「活き鮎」にこだわっているのが素晴らしい。

ほのかにさわやかなスイカの香り、それに昆布の旨味が加わり、さらに一粒一粒が立つような酢飯と重なり合って、絶妙としか言いようのない甘みとなって口中に広がっていく。その余韻。

「至福、至福。これでいつ冥途に行ってもいいさ」
大叔母がつぶやけば、村民2号も目をハートにしてうなずく。
「ホントね。村長の稼ぎさえよければ来年も来れるのにね」


彦作村長も、コケにされているのに、目をウルウルさせている。
「冥途に行っても安心してください。天国特派員の村犬チャイに命じて、鮎寿司のうまい店を探しておきますから」
次の瞬間、ほろ酔い村長の後頭部に大叔母の回し蹴りが飛んできた。



本日の大金言。

とかくこの世は生き難い。智に働けば角が立ち、情に竿させば流される。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ川のドンブリ。



         桐生鮎⑦ 

酷暑も消える!最古の甘味屋で「氷宇治あづき」

 何ということだ。処暑(夏の終わり)だというのに、暑さを超えた炎熱地獄。今や日本一暑い埼玉・熊谷あたりでは38度に達する勢い。街中の体感温度は40度をゆう超えている。TVではタクシーの運転手さんが「商売にならないよ」とげっそりしていた。

「こういう時はやっぱり江戸だな」
「どういう意味?」
「久しぶりに江戸に行ってこようと思う。江戸の知恵だよ」
「みちのくから帰ってきたばかりだというのに、またお出かけ? どうせ帰りに北千住で遊んでくるんでしょ
赤羽彦作村長は、大の字になって扇風機を独り占めしているている美熟女の村民2号の毒矢を右ひだりとかわしながら、旅支度を整えた。腰痛ヘルニアを抱えているとは到底見えない。

炎天の下、やってきたのは、彦作村長の好きな街・人形町。東京で一番古い甘味屋「初音」でかき氷を楽しもうという算段だ。宮仕えのエンターテインメント新聞社時代、村長は時間があれば人形町を歩き回った。人形町は江戸時代初期に吉原遊郭があったところ。江戸の大半が焼失したといわれる明暦3年の大火(1657年)などで、吉原遊郭が人形町から浅草に移転し、歴史的には前者を元吉原、後者を新吉原と呼び分けている。

人形町はその後、火事で焼失した跡地に芝居小屋が出来、歌舞伎や人形浄瑠璃のメッカとなった。人形町という名称も人形師が多数住んでいたことから来ている。江戸時代は「人形丁」と言っていたようだ。いずれにせよ、江戸の庶民の娯楽スポットだった。

「初音」は天保8年(1837年)創業というから、175年の歴史がある。浅草の「梅園」(安政元年=1854年創業)よりさらに古い老舗中の老舗甘味屋である。


        人形町・初音③ 


記者時代はしる粉やあんみつなどを楽しんだりしたが、この暑さ。少々値が張るが、「氷宇治あづき」(850円)を注文した。ここでかき氷は初めて。「氷アンズ」(850円)にしようか迷ったが、小豆マニアの村長の決断はアンズにあんず、だった(ちょっと苦しい)。

熱いお茶が出てきた。夏でもお茶! これが「初音」なのである。
「昔からずっと温かいお茶なんですよ。鉄釜で沸かしたお茶です。お茶一杯手抜きしない。これが代々の女将さんの心意気でもあるんです」
店員さんのさりげないひと言が重い。現在は8代目だという。
お盆に載って、「氷宇治あずき」がしゃなりとやってきた。ムムム。真っ白いかき氷と白玉4個の小皿。小豆も宇治も見えない! 彦作村長の動揺を見透かしたように、店員さんが「あんと宇治茶は中に入ってます」。


         人形町・初音① 


甘党で鳴らしたつもりの彦作村長も初めての体験。量的には少なめの真っ白いかき氷をスプーンでカシャカシャと崩す。中から見事な色ツヤの北海道産小豆が現れてきた。小粒である。宇治もさわやかな緑陰を醸し出している。清流を思わせる甘露水が「甘い誘惑」を潜めている。サクサクした氷を小豆にのせて、ひと口、スプーンですくって、口の中へ。甘さは控えめで、気品がある甘みという表現がぴったり。宇治は吹き上がるように薫り高い。選び抜いた宇治茶を使っているのがよくわかる。ああ、昔の八千草薫のようだ(古い、座布団一枚取りッ)。

最後に白玉である。これが絶品だった。もっちり、もちもち、などという表現を超えた食感。間違いなく彦作村長が食べた中では最高峰の白玉である。掛け値なしに「間然するところがない、白玉さま」とひれ伏したくなった。


          人形町・初音② 


全体的には量が少なめなこと、派手さに欠けること。それは虎屋のかき氷の対極とも言える。しかし、そこにこそ「初音」の江戸の粋が詰まっていると思う。写真はわかりやすくするために小豆と宇治を表に上げたもの。これらをわざと奥にしまっておく。「オレがオレが」「ワタシがワタシが」野暮が全盛の時代にこのさりげない粋。小津安二郎の世界にも通じる江戸しぐさの伝統。

「白玉の餅は毎日、石臼でついているんですよ。外から小豆も宇治も見えない宇治金時なんて、うちくらいかもしれませんね。ええ、昔からこうなんです(笑い)」
勘定を終えるときに、店員さんに、疑問点を二三聞いてみたら、こういう答えだった。「昔から」そこに彦作村長は江戸時代からつづく老舗の心意気を感じて、カッポレでも踊りたくなった。踊る阿呆に書く阿呆・・・。外に出ると、照りつける炎熱の空も次第に江戸紫に見えてくるようだった。



本日の大金言。

江戸は遠いが、これからは近くなってくるに違いない。3.11がそのターニングポイントになるはずだ。日本の生き延びる道がその先にきっと見えてくる。

           

          人形町・初音④ 
           




幕末が再び?日本で最初のラーメンの悪夢

福島を後にして、 常磐道を赤羽彦作村長のポンコツ愛馬が南へとひた走る。左手にはまるで3.11などなかったかのように太平洋がキラキラと広がっている。ここの海底にも巨大地震の可能性が指摘されている。しかし、茨城沖はそんな素振りを毛ほども見せず、「元気なうちにせいぜいこの美しい景色を楽しんでくれ」と両腕を思いっきり広げて囁いているようだ。海は魔物だ。村長は改めて、人間の存在のあまりの小ささと思い上がりの大きさのギャップを思わざるを得ない。


          水戸① 


3.11の教訓があるとすれば、原発という新しい魔物を人間の手で作り出してしまったことではないか。これにどう向き合うか、は極めて深刻な問題だと思う。

原発は核にも通じている。あの黒沢明監督がノーベル賞作家のガルシア・マルケスとの対談で、唯一意見が対立した

「核は絶対に人間の手では制御できない。残念ながら人間は愚かだ」と黒沢監督が言い、それに対してガルシア・マルケスは「制御できる。私は人間の理性・知恵を信じる」と譲らない。それまで和やかだった対談が、にわかに緊迫したのが活字上でもわかった。その対立はそのまま原発にも通じている。

その後の東電や政府やメディアなどの対応を見ていると、彦作村長は今では黒沢監督に分があると思う。3.11は人間が作り出してしまった魔物が大自然という巨大な魔物の尻尾に触れてしまい、「制御する知恵がないのに、おまえらは作ってしまった。おまえらに資格はない。自前の太陽を作ろうとするなんて百年早い」恐ろしい声でそう諭されたように思えてしまう。

あまりの暑さにエアコンをつけながらアクセルを踏み続ける矛盾。赤羽彦作、単なるバカでは片づけられない。何という矛盾の塊であることか。

物思いにふけりながら走ったため、途中何度かひやりとしながら、水戸インターを降りて、矛盾の塊・彦作村長は偕楽園に向かった。目的は「光圀ラーメン」である。水戸光圀は日本で初めてラーメンなるものを食べた人と言われている。「これが目に入らぬか」とただ葵の御紋の印籠をかざすだけの人ではない。


         水戸④ 


テレビの水戸黄門は実像とはかなり違って、あんなにさばけた人ではなかったようだ。実際にお会いしたり酒場で飲んだわけでもないので、実態は不明だが、「大日本史」を編纂するほどの変わったインテリだったようだ。日本中を回った形跡もなく、助さん格さんも架空の存在で、江戸末期の講談師が創作した「水戸黄門漫遊記」がその原典というのが真相のようだ。

健康には相当留意した人らしく、それが「光圀ラーメン」(840円)にも表れている。光圀が日本で最初にラーメンを食べた人だという根拠は、約320年ほど前のこと。朱さんという中国「明」の儒学者から様々なことを伝授され、その中に麺類もあったと言われている。さらにレンコンの粉を練り込んだ汁麵を食したという記録も残っているそう。

客がまったくいないガランとした食堂で待つこと15分ほど。大きな中華ドンブリに極めてユニークなラーメンがやってきた。具に煮込んだ長方形のチャーシュー。かなりの煮込み方で、味りんでも入っているのだろうかという照かり方。そのすぐ近くに梅干し、クコの実、松の実、絹サヤという布陣。噂には聞いていたが、梅干し入りのラーメンとは。偕楽園が梅園で、光圀公も好きだったということを考えると、至極当然の布陣なのだが、クコや松の実まで従えて、こうして目の前に「光圀でござる」と来られると、こちらもつい「ははーっ」とひれ伏したくりたくなる。何も悪いことをしていないのに。


        水戸②   


「麺にレンコンの粉が練り込んであります。光圀公が食べたものも基本的にはこんなだったんじゃないでしょうか」
愛想のいいおばさん店員がそう解説してくれる。

スープはしょう油系であっさり味。問題の麺は細麺でストレート。歯ごたえがほとんどない。ラーメンというより素麺のような食感だ。これが日本で初めてのラーメンか、という感動は湧きあがってこない。コクとか奥行きがないことに気づく。薬味として付いているショウガ、ニンニク、ネギをまとめて入れてみた。混迷がさらに深まってくるようだった。ラーメンが幕末状態になってきた。攘夷か開国か。うまいかマズイか。

「これで840円はちと高いのではないかのう」
思わす東野英治郎調でつぶやいてみる。
「いやいや彦作さん、光圀ラーメンにうまさを求めてはいけませんぞ。ここから日本のラーメンが始まった。その事実が大事なんじゃよ、ハッハッハ」
水戸黄門さまの声が降りてきた。そう言えば、幕末の惨劇も水戸藩から始まったっけ。

折から坂本龍馬気取りの橋下なるトリックスターが京都、いや永田町を引っ掻き回し始めた。「維新の会」などという言葉がメディアを席巻し始めている。150年の時を経て、日本はふたたびあの幕末状態になってしまうのか? 歴史は繰り返すのか? そのとき会津藩はどうするのか? 赤羽彦作村長はしばし黙り込んだ。



本日の大金言。

日本を取り巻く環境が何やら幕末に似てきたように思う。安政の大地震と3.11。野田内閣と徳川幕府。ペリーとオバマ。中国と帝政ロシア。だが、永田町に西郷隆盛と勝海舟がいない。モドキは一杯いるが。


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涙の海、いわきの寿司屋で絶品の9カン

照りつける夏空の下、いわき駅前のロータリーの上からメーンストリートをボンヤリと見ているひとりの中年男。その背中の佇まいに彦作村長の目が釘付けとなった。自警団員だろうか、ひょっとして漁業関係者かもしれない。長靴姿で街の消防団員がよく着ている紺色に白の横線が入った半纏をまとい、ちょうど背中の中央には「いわき」の白抜き文字。

         いわき市① 


大震災さえなかったら、なに気ない日常の一コマかもしれない。しかし、彦作村長には、その後ろ姿が何かを雄弁に語っているように見えた。何か話そうと思って、声をかけようとしたが、できない。その中年男に何があったか、3.11から約1年5か月。どういう思いでいるのか、極楽とんぼの彦作村長が話しかけるには、あまりの重さを直感してしまったのだ。10分ほどただ背中を見る羽目になってしまった。

原発事故の影響でいまだ続く交通規制。いわきからの北上は広野町まででストップ。そのため彦作村長はいわき市内を目的もなく歩くこととなった。とはいえ、いわきの魚がどうなっているのか、魚好きとしては、重大な関心がある。

「いわき海鮮寿司 おのざき」という看板が目に入った。和紙に墨で「いわき小名浜 地場魚屋」とも書かれている。時計を見ると午後1時を回ったところ。「ランチタイムメニュー 特上武蔵 1500円」と書かれたボードも目に入った特上で1500円! 中身が問題だが、財布の底がつきかけている村長にとっては、その価格設定にも、心と胃袋が動かされた。


          いわき市11 


地元の魚屋さんが経営している寿司屋だった。何か所か回転ずしも経営しているようで、地場の魚をできるだけ安く提供しようというポリシーのように思えた。

「らっしゃい!」店に入ると、店長らしきオッさんと若い女性の店員が同時に声を上げた。カウンター席は30人は座れるくらいの広さ。1時を過ぎていたためか、ひと戦を終えたようで、客は彦作村長の他は3人ほどしかいない。さっそく「特上、お願いします」。のどがカラカラだったので、生ビールも頼もうと思ったが、ここは我慢がまん。冷たい水をビールのつもりでぐいっと飲んで、待つこと10分ほど。

出たきたのは見事な一通りだった。マグロの大トロ、赤見、白身(2カン)、ボタン海老、ズワイガニ、アオリイカ、それにウニ、いくら。そっと数えてみたら、合計9カン。鮮度の良さは魚の色で、すぐにわかった。この中身で1500円とは信じられない。東京の感覚で言うと3500円くらいの印象。しかも、ランチタイム特別メニューで、茶碗蒸し、サラダ、みそ汁まで付いてきた。


         いわき市・寿司  


イカ好きの村長としてはまずはアオリイカ。6月から8月にかけてが産卵期で、この時期のアオリイカは甘みが濃く、村長は好きだ。通でもないのにカッコつけ屋の彦作バカ村長は箸を使わず、指先でつまんで、口に運ぶ。アオリイカ特有の甘いねっとり感が口中の粘膜という粘膜に海の愛をささやくようだ。い、いかん。身を持ち崩してしまいそうだ。ギリギリのところで、あわてて、お茶を流し込む。

白身は今が旬のカンパチとスズキ。あっさりしていて淡泊だが、うまい! 大トロと赤身はなんと本マグロを使っている。ズワイガニ、ウニ、ボタン海老・・・食べ終えるのが正直惜しくなるくらい。食べるたびにため息が出てくる。この内容で1500円とは・・・どうやって採算が取れるのか、逆に心配になってしまうほどだった。

「魚はどうしてるの?近場の魚はまだモニタリング中なんでしょう?」
店主と雑談してみた。
「そうなんですよ。だから全部築地に行って仕入れてるんだよ。これは全部他の地区の魚です。モニタリングが終わるまで近場の魚はダメでしょう。しょうがないけど、そりゃ、くやしいよ」

深刻な話を明るく話す。浜通り特有のあっけらかんとした話しぶりだが、その奥にある思いは相当なものがあると思う。
「また来てくださいよ。いわきは元気で頑張ってるから。お客さんが来てくれることがとにかくうれしいんですよ。東京の値段よりずっと安い。鮮度も中身も胸を張れるよ」
外に出ると、村長のちっぽけな背中にいわきの海が広がっていくようだった。いわきの海を返してくれ!そう叫んでいるような気がした。



本日の大金言。

東電と原発マフィアの罪はあまりに重い。しかもそれは現在進行形でもある。この国は一体誰のためにあるのか?

                                  

                      いわき市10 


「なみえ焼きそば」の旗に胸が熱くなる

 赤羽彦作村長は、美熟女の村民2号をウマズイめんくい村に一時帰村させることにした。会津を発って、西へ向かうことにしたからだった。

「どうして私だけ帰んなきゃいけないのよ。いわきにも行ってみたいし、そこから北上もしたい。私だって、被害の状況を自分の目で確認したいのよ」
「まあまあ、そう責めないでくれよ。歩き過ぎと食い過ぎで体調を壊したんだから。双葉町から避難している猪俣のおばあちゃんも言ってたろ? 無理しちゃいけないって」
「ホントは一人になって思いっきり羽根を伸ばしたいんでしょ? わかってんだから」

毒矢を吹き続ける村民2号だったが、この2日ほど体調がすぐれず、何があっても食欲だけは旺盛だったのに、村長以上に大好きな晩酌さえもやめていた。その分は彦作村長がしっかり補ったが・・・。

無理もない。村犬チャイの死、ほとんど休みもなくハードスケジュールの東北ツアー。口には出さないが、さしもの「鉄のおばはん」も精神と体調のバランスが崩れたのかもしれない。

彦作村長は会津若松駅で村民2号を見送った後、頭を切り替えて、ポンコツの愛車のアクセルを踏み込み、常磐道路を西へと向かった。まずはいわき市に草鞋を脱いで、その後、できる限り北上しようと考えていた。

いわき市に入った。ここは福島第一原発から南に約40キロ~50キロほど離れている浜通り最大の街。スパ・リゾート・ハワイアンズもあり、復興へ向けて力強く歩み出そうとしている街でもある。それでも3.11の傷跡は深く、海岸沿いには地震と津波で瓦礫となったままの地区もある。

彦作村長はポケットからそっとガイガーカウンターを取り出す。駅、飲食街、商店街など数か所で測定してみた。いずこも「毎時0.10~0.15マイクロシーベルトほど。この数値は東京や埼玉とそれほど変わりなく、ホットスポットと言われた千葉県柏市などより少ない。風向きが功を奏したのか、北西に位置する福島市や郡山市よりずっと少ない。


                  いわき市③ 


人口約33万人、いわき市の街中はそれなりに活気があった。灼空の下、彦作村長はトボトボ足で歩き回る。商店街の一角で、村長の視覚に「なみえ焼きそば」という旗が入った。

交通規制で双葉郡浪江町に入ることはあきらめていたが、まさかここで、目的の一つだった「なみえ焼きそば」に出会えるとは・・・。彦作村長は感動で目がウルウルするのがわかった。

なみえ焼きそばの特徴は極太の麵。豚肉ともやしだけ。それが濃厚なソースで味付けされる。一味唐辛子をかけて食べるのが通の食べ方でもある。戦後から復興期にかかる昭和30年に居酒屋「縄のれん」がメニューに出したのが始まりと言われている。大震災後、避難でバラバラになった浪江町だが、2011年、姫路で行われたBー1グランプリで4位入賞を果たしている。


               いわき市⑥ 


石巻焼きそば、横手焼きそばと今回の陸奥の旅は焼きそばの旅でもあった。どちらも確かにB級のうまさだった。うまいまずいを超えるウマズイ領域。それ以上に震災から立ち上がる、その一点にこそ価値があるのではないか、村長は心からそう思う。いやも応もない瓦礫の現実。戦後が焼け跡闇市から復興したように、そこから立ち上がれるか。

村長は叩くと音がする木魚みたいな頭で、野坂昭如や開高健という偉大な作家が書き、語っている焼け跡闇市の一杯の雑炊を思ってみる。ひょっとして、焼きそばはその延長線上にあるのかもしれない。

東京電力の犯罪、国家のウソ、永田町の無策、メディアの迷走・・・困難な作業だが、それはそれできっちりと検証とけじめをつける必要があると思う。彦作村長は一匹のアリにすぎないが、柄にもなく、怒りで、卒倒しそうになる。アリの一穴だってあるんだぞー。村民2号がいたら、きっと「アリというより一匹の極楽とんぼでしょ」というに決まっているが。

テントで旗を立てて焼きそばを作っていたのは「NPO新町なみえ」のメンバーだった。行列のうしろに並んで順番を待つ。汗だくだくになりながら、巨大な鉄板の上に、ラードを引き、豚バラ肉を炒め、もやしを入れ、ぶっとい麺を入れていく。見事な腕で、焼きそばが出来あがっていく。二種類のソースを入れて、豪快に混ぜ合わせると、何とも言えないいい匂いが、復興のノロシのように辺り一面に漂ってくる。


        いわき市⑦ 


近くの椅子に座って、彦作村長が口に頬張る。大きめの豚バラともやし、それにうどんのようにブッとい麺がいい具合に絡まっている。ソースの甘みとコシがあるのにモチモチした麵の感触。そうしたすべてが舌の上で踊り始める。

そうか、オレは生きてるんだな。退屈な日常の中で忘れかけていたことを思い起こさせてくれる。一味唐辛子をかけてみる。魔法のように味が締まってくるのがわかった。日常には唐辛子も必要なのかもしれない。

値段が300円ということがあるかもしれないが、この味は、村長にはドンピシャリだった。、青空に向かってはためく「なみえ焼きそば」の旗を見ながら、彦作村長は、改めて3.11の痛ましい悲惨とそこからの一歩を思うのだった。


本日の大金言。

迷ったら、大地に足をつけること。そこから何かが見えてくるかもしれない。「なみえ焼きそば」はそのことを教えてくれるようだ。

           いわき市・なみえ焼きそば 




異色の会津そば「栄庵」に圧倒される

 白虎隊が自刃した飯盛山に背を向けて、ポンコツの愛馬を駆って、赤羽彦作村長がやってきたのは、会津では知る人ぞ知る手打ち蕎麦屋「栄庵」。ここのソバは普通ではない。

会津は日本でも有数のソバどころでもあり、ソバ通の間でも評価の高い隠れたメッカ・山都をはじめ、宮古ソバ、磐梯ソバなどレベルの高いソバを提供している。それらのソバは信州や江戸前のように、洗練されていて、その分、値段も安くはない。


                 会津・栄庵⑥ 


ところが、「栄庵」は違う。地元の人でさえ、「あそこのソバはぶっとすぎて、人間が食うもんじゃねえ」と陰口をたたくほど。彦作村長はかつて幾度かこの店に立ち寄り、「もりそば」に挑戦した。ソバというよりうどんかきしめんみたいな太さで、色も玄そばをそのまま石臼で挽いたような見事な地黒。ドテッとしていて、「どうだ、おめえにワタスが食えんべか?」と挑発しているようなソバである。

まずその姿に圧倒される。変な表現だが、女優のあき竹城みたいだ。つけ汁は鰹節と昆布のダシが利いていて、甘くもなく辛くもなく、ちょうどいい味加減。それなのにこの麵のふてぶてしさ。はっきり言って、普通の人ならウマズイではなくマズイと思うにちがいない。しかし、この店のソバを愛する根強いファンが多いのも事実である。

彦作村長は、かつてよく似たそばを賞味したことがある。以前にも書いたが、東京の下町・三ノ輪の「角萬」だ。ぶっとくて、ごわごわしていて、愛想というものがない、色も地黒。先日久しぶりに足を運んで、「冷や肉」を食べたが、代が変わっていて、見た目も味もちょっぴり洗練されていた。以前は「味わうというより格闘」という表現が当てはまったが、正直に「うまい」と感じたくらいだ。

「栄庵」は入口の佇まいからして、店主の変わらない頑固な職人意識を感じさせる。白地のノレンに墨で「奥州会津 手打ち生蕎麦 栄庵」。それも旧書体で描かれている。それをくぐって中に入ると、明治か大正かオーバーに言うと、江戸時代にタイムスリップした錯覚に襲われる。


         会津・栄庵① 


テーブルと座敷があり、20人はは入れるくらいのスペース。厨房がそのままつながっていて、「昔のソバ屋ってこんな感じだったかなあ」と思わせる。今の主人が四代目だという。
かつて何度か食べた「もり」(400円)は避けることにして、今回は、この店の売りの一つでもある「冷特そば」(600円)を注文することにした。

うまいお茶を飲みながら、待つこと15分ほど。出てきたのは、キツネ、昆布、茹でたキャベツ、刻みネギ、それにタヌキが一見無秩序に乗っかった冷やソバだった。ワサビがどっかと付いている。彦作村長は、2秒ほど息を飲んだ。その奥に控えているぶっといソバの意図を思ったからである。


              会津・栄庵⑤  


意を決してひと口。ムムム、行ける。二八のソバは平均して幅5ミリくらいはある。手打ちなので微妙な違いはあるが、平麺である。以前のように地黒で愛想がない。しかし、揚げ玉と油揚げと昆布、それに茹でたキャベツとともに甘くて濃いめのダシ汁に絡み始めると1+1が3になってくるようだった。「もり」には旨味というものをまるで感じなかったが、「冷や特」になった途端、変化が起きつつあった。

じわじわと「ムムム」が「ううう」となり、「う、うまい」に変わっていくのがわかった。こんなはずはない。あき竹城とばかり思っていたのが、松坂慶子に変身してくるようだった(このあたりの比喩がちょっと古いのはご勘弁ください)。これでいいのだろうか? 彦作村長は、会津ばかりでなく日本中を探してもきわめてユニークな栄庵のソバに傾斜していく自分をいぶかった。

蕎麦湯をゆっくりと入れ、ドンブリの底が見えるまで汁を飲み干してしまった。ツマヨウジを3本ほどちゃっかりとポケットに入れてから勘定を終え、外に出ると、会津のどこまでも青い空が入道雲を従えて、「下にい~下にい~」と掛け声をかけているようだった。空を見たら地面をみろ、極楽とんぼの村長に、そう言っているようだった。



本日の大金言。

「きれい」を求める最近の日本に、こんなソバがあってもいい。本当のきれいとは何か? 3.11以降、その問いが日本の咽喉元に突き刺さっている。


           会津・栄庵④ 

スウィーツ界の新しいヒロイン「あわまんじゅう」の衝撃

 ラーメンと蔵の街・喜多方を後にした赤羽彦作村長は、いよいよ旅の目的の一つ、会津若松市に入った。ここは彦作村長のルーツでもあり、尊敬する戦国の英傑・蒲生氏郷が造った街でもある。まず、彦作村長が真っ先に向かったのは「あわまんじゅう」の店・小池菓子舗飯盛山分店。本店は会津柳津にあるが、この「あわまんじゅう」こそ彦作村長の大好物なのである。

                あわまんじゅう① 

福島では柏屋の「薄皮饅頭」が有名で、彦作村長も大好きだが、このあわまんじゅうには及ばない。あわ(粟)と餅で作った皮はせいぜい2日しか持たず、中に入ったこしあんも添加物がない。そのために保存が利きづらいというのが難点だが、そのうまさについては、赤羽彦作村長が太鼓判を押す(それがどうした?という声もあるが)。
この問題さえクリアすれば、薄皮饅頭や最近ブームのかりんとう饅頭を超える人気を集めると心底思う。170年の歴史があるのに、会津周辺以外で「あわまんじゅう」を知っている人はきわめて少ない。なんという損失、なんという怠慢!

「村長、だいしょうぶ? 卒倒しそう。あわくって卒倒なんてシャレにならないわ」
デリカシーを理解しない美熟女の村民2号の毒矢が飛んでくる。
「170年ほど前、円蔵寺が大火に遭ってしまい、そのときに二度と大火にアワないように、という願いも込められているんだよ。このあわまんじゅうには、ね」
「ウマズイめんくい村の台所は火の車だから、村長にはあわまんじゅうが合ってるかもね」
グスン、村民2号がアワと消えてくれないものか。

          あわまんじゅう② 

話は戻る。蒲生氏郷は40歳という若さで病死してしまうが、その死には謎も多い。戦場においては先頭に立って敵陣に斬り込むスケールの大きな武将であり、秀吉に切腹を命じられた千利休の七哲の筆頭に数えられた文化人でもあった。利休の死後、氏郷はその子息・少庵を会津にかくまい、それがやがては千家再興へとつながっていった。

千家が表千家と裏千家に分かれて現在もなお存続しているのも、こうした蒲生氏郷の機転と胆力なしにはなかったと言っても過言ではない。「麒麟児」とあだ名された氏郷がもう少し長生きしていたら、その後の歴史は変わったかもしれない、という声があるのも事実である。若くして織田信長に目をかけられ、その期待がいかに大きかったかは信長の次女・冬姫を正室として与えられたことでもわかる。

近江(滋賀県)に生まれ、信長の死後、豊臣秀吉に仕えた。戦場往来を繰り広げ、伊勢松ヶ島(三重県松坂市)12万石に移り、その後、徳川家康と伊達政宗の抑えとして、会津92万石の領主となった。会津には約5年しかいなかったが、その間、会津に楽市楽座を起こすなど産業の発展にも尽し、現在の会津の商業と文化の基礎を作った人でもある。

彦作村長は紅顔可憐な(?)幼少のころ、毎年正月の10日に神明通りと大町通りで行われる「十日市」が大好きだった。県内でも最大の市で、露天商や夜店がひしめき合い、そこに商店も特別セールを行い、通りは猫一匹入り込むすきがないほど賑わった。わくわくしながら寅さんのようなテキヤの怪しげな口上も聞いた。ブリキの飛行機売りの「ヨーロッパからハーラッパ」などという意味不明の売り口上も今では懐かしい。

その十日市は蒲生氏郷が起こしたと言われる。そこでの幼少期の彦作村長の大きな楽しみが「あわまんじゅう」だった。年に一度、柳津からの出店で、あわまんじゅうを蒸して実演販売していた。その温かい水蒸気と何ともうまそうな匂いが、見物人でごった返す通りに「さあ、おいでおいで」とささやく。それはおいしい魔笛のようだった。

家に帰って包みを解いて味わったあの絶品のうまさ!その当時は、年に一度しかなかった「あわまんじゅうデー」。その黄色いつぶつぶに包まれた「甘い至福」が数十年の時を超えて、今、まさに、目の前にある。10個入り(840円)を買って、縁台に座って、ゆっくりと包みを解く。

              あわまんじゅう④ 

なぜかムフフ、という笑いがお腹の底から出てくる。
「何だか気色悪い~。目がウルウルしてる」

村民2号が何といおうと、彦作村長は、あわまんじゅうしか眼中にない。蒸した粟と餅の黄色いつぶつぶの皮がさわやかな高原の香りを発している。軟らかい。割ると、中から、北海道産小豆で作ったうまそうなこしあんが顔を出す。まるでロンドン五輪水泳女子銀メダリスト・鈴木聡美のようだ。
口に入れると、粟餅とこしあんが絶妙なバランス。脳内エンドルフィンが噴き出してくる。古くて、新しい、さわやかな風が脳天を突き抜ける。何という幸せ! 生きててよかった~。

「救急車、呼んだ方がいいかしら」
村民2号の声が、どんどん遠くなっていった。代わりに天国特派員の村犬チャイの声が、聞こえてきた。
「犬も食わない村民ゲンカだ。もう、ついていけませんワン」



本日の大金言。

「あわまんじゅう」に賊軍の汚名を着せられた会津藩の運命を辿らせてはいけない。ラーメン界の幸楽苑のように、狭い会津から世界に飛び出せ。スウィートの星になれるのだから。


             あわまんじゅう③ 




喜多方ラーメンの老舗「上海」の微妙な味

 ラーメンと蔵の街・福島県喜多方市。赤羽彦作村長が山形・冷やしラーメンを賞味したその足でやってきたのは、約120軒ある喜多方ラーメン店のなかでも50年以上の歴史を持つ老舗の人気店「上海」だった。村の財政事情から駐車代をケチって、ポンコツ愛車を市役所近くに止め、炎暑の中を歩く。懐中時計を見ると、午後2時近い。夏休みだというのに、人が少ない。風評被害が1年前よりは収まりつつあるといっても、まだ以前の活況は戻っていないようだ。


       喜多方ラーメン・上海① 

「村長、ようやく上海のラーメンとご対面ね」
「これまで二度、足を運んだが、なぜか定休日だった。縁がないのか、日ごろの行いが悪いのか。でも、今日は開いてる。うれしいねえ~」
「日ごろの行いがいいとは言えないもんね」
美熟女の村民2号のさり気ない毒など耳に入らないかのように、彦作村長は井上陽水の「なぜか上海」を口ずさんでいる。

以前ご紹介した江戸年間から続く老舗醤油屋「若喜」から歩いて2~3分の距離。路地裏にあるので、少々わかりにくいが、探す楽しみがあるのも喜多方のいいところでもある。「うまいものを求めるなら歩け」ウマズイめんくい村のご意見番・文吾ジイの寸言である。

雰囲気のある暖簾が下がった入口をくぐって中に入ると、「源来軒」や「坂内食堂」に比べてこじんまりしている。テーブルが6つほど。2階は座敷だそう。感じのいい女将さんらしき人が「いらっしゃい」。時間が遅いのに、人気店だけあって、ラーメンマップを持った観光客が5組ほど。

迷うことなく「中華そば」(550円)を注文する。待つこと10分ほど。見るからにうまそうな、シャーシューが3枚乗った喜多方ラーメンだった。シナチクと刻みネギがしっかりと控えている。
まずスープをズズズ。多分とんこつと煮干しで取った、しょう油ベースのコクのある深い味わいが、彦作村長の長旅の疲労を癒すかのように口中に広がる。


          喜多方ラーメン・上海② 


「これよね。脂と魚粉がこれでもかこれでもかと入った最近のアブラーメンとはまるで違う」
「アブラーメンとはうまいこと言うね」
「脂が多すぎて、体にもアブないラーメン。もともと村長が言ったのよ。ボケが始まってきたのかな?」
「佐野ラーメンもそうだけど、シンプルが一番。シンプルの中に深みがある。日本文化だよ」
「値段がリーズナブルのも本当の日本文化ね」


麵は喜多方特有の太い平縮れ麺。モチもちしていてうまいにはうまいが、ちょっと鈍感な印象。
「うーん、期待値が高かった分、あと一歩というところだね」
「私は好きだな。このもっちり感。以前何度か源来軒でも食べたけど、当たりはずれがあったわよね
「そうそう。メチャメチャうまい時とそうでない時があったね。お湯の問題じゃないかな。スープがきれいに澄んでいた時は麵もつるりとしていてコシがあってうまかった。そうでない時は少々濁っていた。麵もどんよりしていたね。人間が作るのだから、出来不出来があるのは仕方ない」
「今日もそうだと言いたいわけ?」
「上海は今日が初めてだから、比較のしようがない。でも、チャーシューもやや固めで、グルメ雑誌や食べログなどのレビューとは違和感がある」
「すべて自家製だから、しょうがないわよ。私はいいと思うよ。店の感じもいいし。それと大根の浅漬けが付いている。この気配りがうれしいし、これはめちゃうま!」
「村長は佐野の宝来軒の凄味を知ってるから、喜多方の職人意識を心配しているんだよ。喜多方ラーメンの実力はこんなもんじゃない。喜多方よ、油断慢心はないか? 首都圏ではラーメン界の生き残りを賭けた戦いはさらに激しくなっているのだよ。原点を忘れていないか?ちょっとエラそーすぎるかな」
「慢心してるのは村長の方よ。気になるのなら、また来て、確かめればいいんじゃない?」

喜多方も佐野も天然の伏流水という他にない武器がある。喜多方にはさらにしょう油蔵が多いという武器もある。
お~い、喜多方さんよ~、風評被害を蹴散らして、またきたかった、と言われるようになってくれ~。自分のバカを棚に上げて、ダジャレのつもりか彦作村長は炎暑の空に向かって叫び続けるのだった。そんな村長を村民2号とどこかの老犬が冷ややかに見ていた。



本日の大金言。

そば屋のお釜になってはいけない。ゆ~だけ。しかし、そのお湯をていねいにかえているだろうか。自戒を込めて。

         喜多方ラーメン・上海③ 

冷やしラーメンの元祖とついにご対面

赤羽彦作村長は実は大の冷やしラーメン好きである。首都圏には「冷やし中華」をメニューにする店は多いが、悲しいかな「冷やしラーメン」を食べさせてくれる店はきわめて少ない。ここで改めて冷やし中華と冷やしラーメンの違いを確認しておきたい。

「冷やし中華」はスープが少量で酢醤油であること。具には千切りにされたキュウリ、ナルト、ハム、チャーシュー、錦糸卵、紅ショウガなどが乗っていること(店や地域によってはもやしやトマトや鶏肉なども使う)。黄色い洋ガラシがちょこんと付いていること。これらの要件を備えたものが「冷やし中華」である。
一方、「冷やしラーメン」はイメージとしては、ラーメンをそのまま冷やしたような形式。スープはラーメンと同じくらいの量で、文字通り「冷やし」「ラーメン」なのである。とはいえ、スープはそのままだと、コクがなくなる。そのため、店によって様々な工夫がある。

彦作村長が東京・三鷹で暮らしていたころ、メーンストリートの路地裏にあった洋食屋のメニューに突然「冷やしラーメン」の文字が躍った。「ハンバーグ」とか「ミックスフライ」とか「ビーフシチュー」に混じって、冷やしラーメン!
感動した村長は、値段は少々高かったが、さっそく注文した。これが実にうまかった。スープは牛のテールから取っていた。しょう油とコンソメとプラス何か、麵は細ちじれ麺で、コシがあり、近くのラーメン有名店の「江ぐち」より上等な麵だと思った。具はチャーシューともやし、それにミニトマトが乗っているだけ。

夏だけのメニューだったが、若かりし村長はその味のトリコになり、足しげく通った。しかし、その店は理由は不明だが、閉店してしまった。オーバーではなく、「こんな理不尽が世の中に会っていいものか」と1週間ほど嘆き悲しんだものだった。


その後、門前仲町をたまたま散歩中に中華そば屋「晴弘」を発見、よく似た味の「冷やし中華そば」に出会った。牛をベースにしたスープは少なめだが、細縮れ麵も具も実にしっかりと作られていて、それぞれが絶妙の味わいで、1+1が3になっている。村長の長いB級グルメ生活ではここが「冷やしラーメン類ナンバーワン」だと思う。ここには今でも時間があれば通っている。

東北ツアーの目的の一つが、「冷やしラーメンの発祥」と言われる山形市の「栄屋本店」。メディアでも取り上げられる機会が多くなり、午後5過ぎだというのに、込み合っていた。2~3人順番待ちもいた。もともとそば屋なだけに、メニューにもそばやうどん類が書かれている。

                 冷やしラーメン② 

山形の夏は暑い。2007年(平成19年)、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市が40.9度を記録、それまでの山形市の記録40.8度(1933年に記録した40.8度)を塗り替えた。恐るべきことに山形市は79年間「日本で最も暑い街」だったのである。
あまり暑いので、常連客の一人が店主に「夏はそばも冷てえのを出すんだから、ラーメンも冷てえのを食べたいべえ」。そのひと言が切っ掛けとなって、店主が研究に研究を重ね、1952年(昭和27年)の夏、ついにメニュー化に成功したという。

テーブルに着くと同時に「冷やしラーメン」(750円)を注文する。美熟女の村民2号も明るい声で「右に同じイ~」。

やってきたのは見事な盛り付けのラーメン。
乗っている具はもやし、キュウリ、かまぼこ、シナチク、のり、刻みネギ、チャーシューは小さめだがビーフ。それらが浴衣、うちわ風姿でウインクしながら「おいでおいで」しているように見える。和と洋の絶妙な融合。氷が浮いているのがすごい。

         冷やしラーメン③ 

ますはスープ。牛と鰹節と昆布などで取っている。あっさりとしているのに濃厚。牛のダシの甘さが奥に潜んでいる。山形の名産ラ・フランスの香りも入れているというが、村長の舌には、そこまで味わう余裕はない。鼻の穴が広がっている。麵は太くてごわごわしていコシがある。そば粉を入れているのかもしれない。

うまい。ス―プには冷やしても固まらないように紅花油やごま油なども入れているという。もやしとシナチクはシャキッとしていて麵とスープによくマッチしている。ビーフのチャーシューは硬めで可もなく不可もない印象。三鷹や門前仲町の経験であえて言わせてもらうと、チャーシューは豚の方がいいと思う。

半分食べたあたりで、村民2号の箸が止まった。
「私にはボリュームがありすぎる。最初はうまい。でも、味が単調で、少し飽きてくる」
「村長もそれは感じていたよ。二箸、三箸あたりまでは絶品だと思った。確かに味が単調で、奥行きにかける気がする。氷はいらないと思うよ。エアコンがなかった昔ならいざ知らず。スープが散漫になっていく。期待が大きかった分、余韻がどうもなあ」

彦作村長は、冷やしラーメンという発想とその開発の努力には敬意を表するが、混み合う店内を見渡しながら、メディアのB級グルメ報道の過熱を冷やすことも必要かもなあ、と思うのだった。何事も行きすぎはよくない。「ウマズイめんくい村通信」はオンボロだが、その小さなタグボートでもある。だが、焼きそば、冷やしラーメンの行脚は、東北の被災地めぐりというあまりに哀しい現実の前で言葉を失いかける。

「大丈夫だよ、村長。天国ではバカバカしいけれど、これまでにないキュートなブログとして評判になってるから。ウォームハート、クールヘッドで、ファイト、ファイト!わお~ん!」
天国特派員のチャイが独自の通信網を使って、村長のカビが生えつつあるダンボ耳にそうメッセージを送ってくるのだった。



本日の大金言。

B級うまいもの探しに休息はない。コロンブスと猫ひろしに休息はなかったように。 
                                           

          花笠まつり  

B-1グランプリ優勝の焼きそばと対決

 「石巻焼きそばには期待が大きかった分、ちょっとがっかりだったわね。震災の被害を考えると、頑張ってほしいし、応援したい。だけど、焼きそばはねえ。期待が高すぎたのが悪かったかもね」
「まあ、でもあんなもんだと思うよ。適度にうまかったしね。B級なんだから、あれでいいのだ、だよ。ロンドン五輪の男子柔道じゃないけど、期待しすぎはよくない。そもそも焼きそばに金メダルを期待するほうがおかしい」
「あれっ、ガイドブックを見て石巻焼きそばは凄いぞ、って言ってたのは誰?」
「メディアの伝え方に問題があるのは、確かだよ。昔、寄席の常連客は、噺家に対してシビアだった。それが、いい噺家を育てたんだよ」
「それが落ち? 村長も苦しいわね」


         横手の夕焼け 


赤羽彦作村長と美熟女の村民2号は、そんなやり取りをしながら、ポンコツの愛車を秋田県横手市に止めた。すでに夕闇が忍び寄っていた。夕焼けが異様な美しさだった。あの3.11の時に、瓦礫の中から救出された少年が、「星がとてもきれいだった」と言っていたことを村長は思い出した。改めて、大自然の脅威と驚異に頭を垂れる思いだった。

横手市は「かまくらの街」としても有名だが、第4回B-1グランプリで優勝した「横手焼きそば」の街としても、脚光を浴びている。市内には「横手やきそば暖簾会」加盟の店が約50軒ほどある。彦作村長はその中でも、昔ながらの味を売り物にしている「「郷土料理 七兵衛」にダーツを投げた。

この街も人通りは少ない。小泉首相が押し進めた構造改革のしわ寄せとそこに3.11。その風評被害などで、地方経済、特に東北の傷みは想像以上だと改めて実感する。首都圏にいると、感覚がマヒしてしまい、生身の感覚が少しずつずれていく。彦作村長は「現場感覚の復権」こそが大事だと思う。一日24時間のうちせめて3時間くらいは頭から足へ、である。

横手駅近くの「七兵衛」は店構えが古くて少々寂しげだった。これだこれだ、このローカルさがたまらない。ノレンが逆になっているのも気に入った。


          横手焼きそば③ 


年配のオヤジさんと奥さんがどっしりと店を切り盛りしていた。カウンターとテーブルのある座敷。20人ほどは入れる広さ。時間が早かったせいか、客は他に1組の中年カップルだけ。


さっそく生ビールと「横手やきそば」(シングル=麺1個、600円)を注文。話好きのオヤジさんと会話を楽しむ。


「昔ながらの焼きそばを作っているのはうちと数店ぐらいだなあ。横手焼きそば昭和38年ごろに麺屋が食堂の店主を講師にして、駄菓子屋や雑貨屋に作り方を教えたのが始まりなんです。子ども相手に店のおばあちゃんが作ってた。子どものおやつだったんですよ」
「へえー、それが平成に入ってから全国で巻き起こった町起こしの流れに乗って、横手焼きそばがブームになっていったわけですね」


「そうそう。暖簾会もできてね。店によって、味もちょとずつ違う。ウチは雑貨屋時代のつくり方を守っている。太い茹でめんを煮焼きするんですよ。だから、脂分が少なくて体にもいい。上に乗っける半熟の目玉焼き卵は、かなりの経費だけど、比内鶏の卵を使ってるんですよ。比内鶏にこだわっているのはウチぐらいなもんです」

その「横手やきそば」がやってきた。ストレートの太麺の間からキャベツとひき肉が「おいでおいで」と囁いている。上に乗っかった半熟の目玉焼きは確かに普通の目玉焼きに比べて気品がある。紅ショウガではなく福神漬けが添えられている。これも「横手やきそば」の特徴だ。


          横手焼きそば② 


まず目玉焼きを箸で突く。その黄色い至福を太麺に絡め、ゆっくりと口中に運ぶ。麵はゴワゴワしているもののモチモチしていて、いい食感である。自家製ソースは甘めで濃口。油で炒めるのではなく、煮焼きしているためか、全体的にまろやかな味わい。
「イケるわね。B-1で優勝したのも理解できるわ。富士宮、太田と並んで日本三大焼きそばといわれるけど、こっちの方がわたしの好みかも」
「たかが焼きそば、されど焼きそば。期待のハードルを上げてはいけない。この店の主人の秋田弁も味わいがあるよ。横手に立ち寄ってよかった」

バカ丸出しでほろ酔い気分の村長と村民2号が外に出ると、外はすっかり暗くなっていた。意味もなく両手を広げて背伸びする村民2号。星が横手から出ていた。少年が瓦礫から見た星はどんなだったのか、一瞬、痛ましい思いが、彦作村長のアルコールびたしの脳裏をよぎった。




本日の大金言。


B級グルメは町起こしとともにある。疲弊している町の活性化を支えるのは、何よりも熱意だと思う。婚活も大切だが、地活も大事ではないだろうか。


         横手焼きそば① 

幻のうどんを賞味しながら小野小町を想う

 秋田県湯沢市といえば、美人の産地で知られる。平安時代初期に六歌仙の一人として活躍した小野小町生誕の地としても知られている。小野小町については資料も乏しく、謎も多い。本当に絶世の美女だったのか、実在さえ疑う説もあるほどだ。京都での生活に疲れ、故郷の湯沢(小野町)に戻って余生を過ごし、昌泰3年(700年)、75歳で亡くなったと言われる。

だが、湯沢に足を一歩踏み入れると、確かにエキゾチックな美人が多く、小野小町伝説も架空の話とは思えなくなる。彦作村長は記者時代に、近くの角館を取材したことがある。その時の衝撃は未だに脳幹に残っている。街を歩く女性の2人に一人は美人、そう感じた。しかも、肌や目や体形に「白系」の匂いがする。「ここは異国だ。こんな幸せな国に今いる幸せ」若かりし彦作村長は、頭がくらくらするほどの脳内エンドルフィンを感じたのだった。

町役場の一人が「美人が多いのは水がいいばかりではなく、確かに、何らかの理由でヨーロッパ系の集団が遠い昔にこのあたりに移住してきたという説もあります。エキゾチックな美人が多いのもそのせいかもしれませんね」そう言ったことも記憶に残っている。

戦後を代表するカメラマン・木村伊兵衛の代表作「秋田おばこ・大曲」のモデルとなった編み笠をかぶった野良着姿の超美女がその典型的な例だといってもいい。その美女はどう見ても弥生系日本人には見えない。縄文系日本人にも見えない。
小野小町もこうした顔立ちだったのだろうか? クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ「世界三大美女」の一人という伝説もあり、当時は写真がなかったことが実に実に悔やまれる。

「何、寝ぼけたこと言ってんの? 湯沢にはもう一つ、稲庭うどんがあるでしょ。それが大きな目的なのに、村長ったら美人に目がくらんで。メッ」
美熟女の村民2号が、彦作村長の幸せな妄想に冷や水を浴びせる。悲しい現実がこちらをじっと見ていた。
「そうだった、そうだった。創業万延元年(1860年)の七代目・佐藤養助本店に行かなくちゃ」


        稲庭うどん② 


本店に電話をすると、「ここは作ってるだけで、食事はできないんですよ。湯沢市内にも1件ありますから、そちらをお教えします」という。稲庭うどんは佐藤養助の祖先・佐藤吉左エ門さんが、寛文5年(1665年)に製法を確立、それは代々秘伝とされ、一子相伝で現在も受け継がれている。稲庭うどんは藩主への献上品として生み出され、驚くべきことだが、一般庶民が口にできるようになったのは戦後になってからで、ごくごく最近のこと。

藍染のノレンをくぐって、出されたお茶を飲みながら、メニューを見る。一番シンプルで安いのが「せいろしょうゆ」(750円)。村長はしょうゆ汁とゴマ汁を楽しめる「二味せいろ」(850円)を注文。村民2号もなぜか同じものを注文。

やってきたのは、奥に夢のような乳白色を隠しながら、見事に透き通った、細いうどんだった。宮仕え時代に銀座などで飲んだとき、最後の締めに出てくる「稲庭うどん」(うまかった)とは見た目からして違った。冷麦のように細くて、しかも凛とした気品が漂っている。讃岐うどんや加須うどんと同じうどん類とは思えない。彦作村長は讃岐も加須も大好きだが、庶民と貴族の違いとでも言ったらいいのか、こんなうどんがこの世に存在することが驚きである。


         稲庭うどん④ 


「稲庭うどんは乾麺なのよ。それもただの乾麺じゃない。一本一本すべて手作り。ものすごい技術と根気がいる。完成するまで4日もかかるの。だから、ちょっと前まで幻のうどんと呼ばれていたのよ」
どこで仕入れたのか、村民2号がウンチクをひとくさり。

まずはしょうゆ汁で。つるりとした食感。ムムム。こんなに細いのにコシがある。昆布とかつお節で取っただろう汁は甘すぎず辛すぎずでほどよくまとまっている。薬味の生姜と大葉を入れてみる。ひと言文句を言わないと気が済まない性質の村長だが、黙ったまま味わい続ける。

う、うまい。シンプルなのに、その分だけ奥が深いと言わざるを得ない。次はゴマ汁でつるり。こちらもイケる。ゴマの甘みがこの貴種うどんを二度も楽しませてくれる。食べ終えるのが惜しい。正直そう思った。

村長、稲庭うどんは小野小町のよう。そう書くんでしょ? ボキャブラリーが貧困なんだから」
村民2号が、彦作村長の意図を見抜いたように、チクリ。
「ムフフフ、村民2号のよう、と書くかもしれんぞ」
小野小町と稲庭うどんの町で、村民同士のくだらない争いが延々と続くのだった。



本日の大金言。

大震災の被害は少なかった湯沢だが、風評被害もあり、観光客は少ない。絶世の美女と稲庭うどん。これだけでも行く価値は十分ある。特に女房に頭の上がらない亭主の皆さん、湯沢周辺には男の見果てぬ夢が歩いている。

         稲庭うどん③ 



1年後の石巻、三陸海岸と焼きそばのギャップ

 3.11の大津波で最も打撃を受けた人口15万人弱の街・石巻市。ちょうど1年前、まだ宮仕えだった赤羽彦作村長は、目の前に広がる光景に言葉を失った。東北道古川インターを降りて国道108号線で石巻へと向かった。小雨の中をトラックが頻繁に行き来している。1時間ほど走ったころから、光景が一変してきた。鉛色に広がる空の下、テレビで何度も流されたあの壊滅的な光景が目の前にある。大津波に襲われる寸前までそこにあったはずの家々が、そこで営まれていた生活が、根こそぎなくなっている。ところどころに骨組みだけとなった家が、宙ぶらりんのように、取り残されている。その光景が延々と続く。

「遺体安置所」と書かれた立看板が目に入った。TVと違うのは匂いだった。潮風だけではない、奪われた生活の匂いとでも名付けるしかない大地の悲鳴のようなものが、悲惨という言葉を通り越して、彦作村長のあるかどうかもわからない魂を揺さぶった。カメラのシャッターを押すことができなかった・・・。

あれから1年経ったんだなあ。彦作村長と村民2号は、三陸海岸の南端の防波堤で、海を見つめた。海はまるで3.11などなかったかのように穏やかだった。だが、目線を後方に移すと、倒壊した工場や瓦礫となった家々が、ほとんどそのままの状態で取り残されていた。確かに、1年前と比べて、道路などの復旧は進んでいる。「遺体安置所」という立て看板は消え、代わりに新しいお墓が増えていた。生活も表面的には戻りつつあるように見える。だが、深く刻まれた傷跡は、そこら中に、生々しく残っているようだった。

         石巻・海岸 

彦作村長は、頭を切り替えるのに、数分かかった。B級グルメの情報発信をここからしなければならない。それが村長に与えられた任務でもある。天国特派員となった村犬チャイからも「石巻焼きそばを取材して」というメッセージが届いていた。

石巻焼きそばは「第6回B-1グランプリ」で6位入賞を果たした、業界のいわば有名メンでもある。まだ冷蔵庫もない昭和10年ごろ、常温で保存することはできないかと考え、試行錯誤の末に2度蒸しすることで、保存に適した茶色い麺を開発した。それが石巻焼きそばとなっていった。その元祖は「藤や食堂」。人通りの少ない中心街で聞き込みをして、たどり着くと、古びたノレンが下がった町の食堂といった佇まい。「石巻焼きそば」と書かれた黄色い派手なのぼりがだけが目立っている。

        石巻焼きそば① 

あまり愛想のない若い女性店員が、忙しく立ち回っている。テーブルは大小合わせて6つほど。右奥に厨房があり、そこで店主らしい年配の男性が、焼きそばを作っていた。客のほとんどは観光客のようだった。ガイドブックを持ってるのですぐにわかる。

メニューは一番安い焼きそばが450円(もやしのみ)。卵入りが550円。肉、卵、野菜入りの特製焼きそばは700円。
村長は迷うことなく卵入りを注文。待つこと15分ほど。出てきたのは、目玉焼きが半生状態で乗っかっている、定番の石巻焼きそば。麵は確かに茶色い細ストレート麵。紅ショウガもちょこんと彩りを添えている。「お好みでソースをかけて食べてください」と店員さん。愛想のないのは海っ子の特徴ともいえ、そもそも焼きそば屋で愛想を期待する方がおかしい、と気づく。しかも、事態が事態なのだ。

石巻焼きそばの「ウマズイめんくい村」流の正しい食べ方は、まず半生状態の目玉焼きを箸でちょんちょんと崩す。黄身が溶岩のように流れ出したら、ゆっくりと麺に絡める。そしてここが肝心だが、生きてこの瞬間を迎えられたことを感謝しつつ、ズズズと口の中へと運ぶ。ガイドブックなどには「思わず頬がほころぶ」などと書かれているが、それほどのものではない。麵ともやしとソースが水分過多気味で、夜店の屋台の焼きそばの方がうまいくらいだ、率直にそう思った。

         石巻焼きそば② 

だがしかし、と村長は思う。そもそも焼きそばに一流のコックが作るような味とうまさを求める今の風潮こそがおかしいのだ、と。うまいでもなくマズいでもなく、ウマズイ。そこに地元の生活、ウマズイめんくい村用語でいうと「地活(ジカツ)」が隠し味として見える。そこが大事なのである。内容に比して値段が1~2割ほど高くても、それはそれでいいのだ。

「また1年後来ましょうね、村長」
「石巻には何とか頑張ってほしいね。石巻焼きそばの件だけど、魚介類の宝庫なのに、どうしてそれが入っていないんだろう。せめてタコくらい入れてほしいねえ。石巻タコ焼きそばなんていいと思うがねえ
「村長の親戚みたいなものね。ウマズイめんくい村もウマズイタコたこ村に名前を変えたらどうかしら。ね、タコ村長」
美熟女の村民2号のジュークはきつすぎる。石巻の空にタコが上がる日はいつになるのだろう?


本日の大金言。

石巻は明日の日本かもしれない。太平洋を見ていると、リアス式海岸の誕生がつい昨日のことのように思えてきた。


         石巻・海岸②

塩釜の灯は消えず、ガゼウニとうーめんに完敗

宮城県塩釜市、といえば、別名「寿司の街」。彦作村長はかつて寿司好きの間では有名な「すし哲」に3度行ったことがある。約30年ほど前、「マスコミ酒の会」のメンバーとして、今では全国ブランドとなった老舗の蔵元「浦霞」(佐浦酒造)を取材した。ここで、大吟醸酒を利き酒したことが、その後の彦作村長の「日本酒と薔薇の日々」のいわば出発点となった。当時はまだ大吟醸酒は市販されていず、もっぱら「鑑評会用」に少量だけ生産する特別な酒だった。

その会の幹事だった酒評論家の山本祥一郎さんが、「今日は我々のために特別に社長が大吟醸酒を飲ませてくれます。もちろん火入れもしていません。鑑評会以外には、社長がこっそり飲むくらい。そんなすごい酒なんです(笑い)」。
そんな洒脱な前置きで、利き酒用の猪口が配られた。ひと口含んだ時の衝撃は今でも忘れられない。さわやかなフルーツのような吟醸香が口中に広がり、それまでに飲んだ日本酒とは次元がまるで違っていた。利き酒の際は、口に含んで、香りや舌触りを楽しんだら、飲み込まずに吐き出す。しかし、若かりし彦作村長は、どうしても吐き出すのが勿体なくて、こっそりノド越しを楽しんだ。以来、日本酒、特に地酒の大ファンになってしまったのだった。

その帰りに「すし哲」のノレンをくぐり、噂の味を楽しんだのだった。その後も仙台へ行った際などに、時間があれば、足を延ばした。旨いにはうまいが、値段もそれなりで、「評判」が独り歩きしているなあ、と感じたこともあった。「あら汁」などはダジャレでなく荒っぽい印象だった。

塩釜は村長にとっては、ある種思い出深い場所だった。昨年、大震災後に仙台に来たときには、国分町の居酒屋で「塩釜と松島は湾に守られて被害は少なかった。すぐに復興すると思いますよ」と聞き、胸をなでおろした。日程の関係で、壊滅状態の石巻優先で、塩釜まで足を延ばせなかった。

それから約1年。彦作村長と美熟女の村民2号は塩釜に草鞋を脱いだ。駅前を散策する。商店街はあまり活気がない。すし哲の前まで行く。入ろうかどうか迷っていると、村民2号が、「あそこがいい」と言い出した。黒い2階建ての居酒屋だった。隣にホルモン焼きの店があるくらいで、周りには何もなく、その黒いモダンな建物がポツンと目立った。「食彩庵 わたつみ」という看板。

          塩釜・わたつみ③ 

「ここにしましょ。B級グルメの彦作村長のポリシーにピッタシよ。予算の関係もあるし」
「いいね。村長の嗅覚もここにしなさい、そう言ってる」
1階は4~5人ほど座れるカウンター席になっていて、若い主人とかわいい女性店員が「いらっしゃい」。まだ時間が午後6時前だったので、客は他に美人の熟女が一人いるだけだった。
メニューの中から今が旬の「ガゼウニ(馬糞ウニ)」(950円)と「いわしのなめろう」(500円)を注文。お腹がすくと不機嫌になる村民2号は「白石うーめん」(500円)。村長は生ビールを飲んだ後、地元の名酒「日高見 吟醸酒」(650円)に移った。殻ごと出てきた「ガゼウニ」は今朝、塩釜市場で仕入れてきたもの。鮮度抜群でこれが日高見とよくマッチする。やや辛口ですっきりしていて、しかも奥に芳醇が潜んでいる。リンゴのような吟醸香が大吟醸と間違えてしまうほど鼻腔をくすぐる。

         塩釜・わたつみ⑥ 

「津波でこの一帯もかなりの被害を受けたんですよ。ここも2階まで浸水してしまい、再開まで1年近くかかったんです。ちょうど店を開いて半年でした。呆然としましたよ。泣くに泣けない。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。その一心でした」
打ち解けた後に、主人の後藤さんが漏らした話を聞いて、ヨイヨイ気分の彦作村長はバットで背中を殴られたような気分になった。
「そうなんですよ。この周辺が津波で流されてしまって、この店だけがポツンと残って目立ってた。再開して本当によかった」
常連客の美女が努めて明るく言う。

彦作村長はあの3.11を頭に思い描こうとした。しかし、酒と怠惰な生活で衰えた想像力は現実の前で「枯れた薔薇」となって、空しく粉々になっていくだけだった。

村民2号は、うーめんをうまそうに食べている。
「そーめんみたいだけど、そーめんより胃に優しい感じ。ウーメン好きの村長、こっちのうーめんも味見してみる?」
村民2号が意味ありげにチクリと言う。ジョークのつもりかもしれない。

              塩釜・わたつみ・温麺② 

「塩釜はいいとこだから、また来てください。ホントにいいとこなんですよ」
常連客の声を背に外へに出ると、夕闇がすでに降りていた。潮の香りがどこか痛々しい。
店名の「わたつみ」とは「海神」のこと。海神の怒りは一体何に向けられ、何に怒ったのか?海神は怒りの矛先を間違えたのではないか。

翌朝、高台にある塩釜神社に登って、彦作村長は、こう祈るのだった。
「海神さま、今度は絶対に場所を間違えないでください。まず永田町へ、どうぞ」。


本日の大金言。

3.11の傷跡は深い。一日に1分でもいいから東北の現実を想像してみよう。そこから何かが始まるかもしれない。






伊達政宗の領地に潜入、地粉十割そばに嵐の予感

 ポンコツの愛車が東北道を北に向かってひた走る。ハンドルを握る赤羽彦作村長の手が緊張のためか汗でべっとりしている。
「ちょうど1年ぶりね。福島を過ぎたあたりから、大震災の影響で凸凹してたけど、修復が進み、少しはスムーズになったわね」
美熟女の村民2号がノー天気に言う。みちのく一人旅を主張する彦作村長を押し切って、ちゃっかりと隣に張り付いている。

「大震災から約1年5か月経って、ようやく本格的な修復が始まったようだのう。工事渋滞が多くて、なかなか進まないのは困るが、それでもまだあちこちに凹みが残っている。ときどきガタッとする。去年は何度かヒヤッとしたが、それも少なくなったが」
「あれだけの大震災が起きたんだから、工事が多いのは仕方ないわよ」
「復興に関してはゼネコン利権絡みのよくない噂もある。これだけの震災の傷みを利権絡みにしてはいかん。国が亡びる」
「危ない! 村長、どこ見てんの! 変な時に車線変更しないでよ!」
「す、すまん。つい、興奮してしまった。村民2号と心中はしたくないからのう」
「あたしだって、ヘルニア男と心中したくないわよ。車線より男変更したいくらいよ」

温麺で有名な白石を過ぎたあたりから、村民2号の不機嫌度が増していった。長い付き合いで、その理由が空腹にある事を村長は察知していた。午後2時を過ぎていた。「ウマズイめんくい村通信」の編集長兼記者でもある村長は、仙台まで頑張って、そこで昼メシに牛タン料理などを所望しようと考えていた。しかし、戦争回避のためには計画変更するしかない。

菅生(すごう)PAで、昼食となった。ここはこの7月24日に改築したばかりで、建物が黒をベースにして、入口に伊達政宗の三日月(弦月形前立)を配していた。祖先が会津藩の足軽でもある彦作村長は、会津を造った戦国武将の英傑・蒲生氏郷を尊敬しているために、その最大のライバルだった伊達政宗については、複雑な思いがあり、敵の一人と位置付けていた。そのシンボル、三日月の前立の下をくぐる。


         菅生PA(下り) 


牛タンの店もあったが、ランチで軽く1000円以上もするので、予算オーバーで却下。村民2号の希望優先で、「村田の地粉十割そば」を売り物にする「丹誠庵」に草鞋を脱ぐこととなった。PAで十割そばは珍しい。

「十割せいろ」(550円)にプラスして、「かき揚げ」(150円)を注文した。伊達政宗はバサラだが、緻密な頭脳を持った武将で、あの秀吉の深謀遠慮をかいくぐり、徳川家康の懐にも飛び込んで、伊達藩の礎を造ったことは説明するまでもない。69歳でこの世を去ったが、「食」にも深い関心を持ち、美食家であり、自分でも料理をつくり、楽しんだと言われる。仙台名物の笹かまぼこやずんだ餅も政宗の考案によるという説もある。その領地で「十割そば」とくれば、期待も高まる。


         丹誠庵② 


黒くて、太めのソバ。十割の割にはモチモチ感と歯ごたえがある。これでつなぎを使っていないとは信じられないほど。かすかに蕎麦の香りが漂う。つけ汁も鰹節と昆布のダシが利いている。甘すぎず辛すぎず。

「うまいけど、手打ちではないんじゃない? こんなにきれいに揃ってるのは」
村民2号が冷静に分析する。
「そうかもな。手打ちとうたってはいないしね。かき揚げはどう? これもうまいけど、生温かい。揚げ立てのはずが、ちょっと時間がたっている感じだなあ。忙しいのはわかるけど、政宗公が怒るんじゃないか?」
「150円だから、あまり厳しくは言えない。でも、ムキ海老が1個とはちょっとねえ」
「ま、こんなもんでしょ。伊達政宗は機略が好きだった。その意味ではしっかり伝統を守っているという事ではないかいな」

1年ぶりの「みちのく二人旅」は、波乱の予感を秘めながら、静かにスタートした。灼熱の太陽の下、大震災の傷みが消えない東北。バカを絵にかいたような「ウマズイめんくい村」ご一行の行く手には、「B級グルメの罠と悪夢」が口を開いて待っていることも知らずに。


本日の大金言。

40歳で病死した蒲生氏郷。その死には謎も多く、毒殺説もある。若くして死んだ氏郷と長生きした政宗。氏郷の辞世「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」を噛みしめてみる。

夏の定番ソフトクリームはバニラに限る

「 夏のスイーツの定番はバニラソフトクリームに限るよ」
「あれっ、村長、かき氷とか小倉アイスじゃなかったの?」
「かき氷と小倉アイスは相撲で言うと、西の横綱と東の横綱じゃよ」
「また浮気ぐせが出たというわけ?」
「ま、たまには青い目もいいかな、なんてね」

猛暑が続く「ウマズイめんくい村」のとある午後のひととき。彦作村長と美熟女の村民2号の会話である。天国の特派員となったアイドル犬チャイの初七日も無事に終えて、村はまた平和な日々に戻った。ところが、村長が何故かそわそわしている。
「わかった。旅に出たくなったのね。はっきりそう言えばいいのに」
村民2号は鋭い。バニラのソフトが食べたくなったのだ。

赤羽彦作村長にとって、ソフトクリームには特別な思いがある。小学生のころ、駅近くに甘味屋があり、夏休みになると、少ない小遣いを何とかやりくりして、ソフトクリームを食べるのが無上の楽しみだった。
ウエハースのコーンの上に牛乳色の渦巻きが天高く昇っている。まさに青空に向かって天高く、だった。それをペロペロすると、バニラの香りとともに、甘ーいミルクの冷たい感触が脳天を突き抜けていくのだった。あんな幸せはそうあるものではない。

ソフトクリームの日本での歴史は浅い。昭和26年(1951年)7月3日、進駐軍がアメリカの独立記念日を祝って、明治神宮外苑にソフトクリームの店を出したことが始まり。たった60年ほどの歴史である。そのあとすぐにデパートでも出し始め、あっという間に日本全国に広がっていった。

今では全国津々浦々どこにでもあるし、種類もわさびソフトや味噌ソフトなどありとあらゆるソフトクリームが考案され、それなりに人気となっている。しかし、彦作村長にとって、ソフトクリームと言えば、バニラなのである。チョコレートもイチゴもミックスもソフトクリームではない。その他のソフトなどは論外と言っていい。

「うまいバニラソフトを見つけたよ」
彦作村長が、村犬チャイのように舌をハアハアさせて、帰ってきた。

キハチのソフトクリームがそれ。あの女性に人気の無国籍レストラン「KIHACHI」(本店は東京・銀座)のソフトクリーム部門が展開している店だった。ここも今どきの店で、ゴマやチョコレートやその他いろんな種類を売っている。そこは気にくわないが、「バニラ」(340円)が絶品なのである。

「コーンにしますか、カップにしますか?」
可愛い娘にそう聞かれて、彦作村長は何故かドギマギして「AカップもBカップも苦手です。コーンしかありません」と変な受け狙いで答えた。女の子が笑ってくれたのが救いだった。


                  キハチのバニラソフトクリーム 


ここのバニラソフトクリームはミルク色の中によく見ると黒い粒つぶが入っている。おそらくバニラビーンズの粒子だろうね。その食感がいいし、基本となる牛乳とバニラの香りが新鮮で、まるで高原のさわやかな風のようなのだ。コーンも今はやりのものではなく、多分意図的に、昔のウエハースタイプを使っている。そのパリパリ感も好感が持てる。

いいソフトクリームは食べ終えるのが惜しくなる。ウエハースの奥まで入ったバニラソフトの最後の一滴を、恋人との別れを惜しむように、奥歯の奥へと飲み込むと、村長の短い夏が終わってしまうような気がするのだった。


本日の大金言。

かつて大勲位が鳩山由紀夫をソフトクリームに例えたことがあるが、大勲位は本物のソフトクリームを知らない。そう言ってしまおう。

〈お知らせ)
「ウマズイめんくい村通信」をご愛読、ありがとうございます。誠に勝手ではありますが、赤羽彦作村長がしばし旅に出るので、その間、4~5日ほど休刊とさせていただきます。旅の結末をどうかご御期待ください。

         キハチ・ソフトクリーム②

行田名物ゼリーフライの衝撃

「ゼリーフライ」という不思議な名前を初めて聞いたのは、20年ほど前のこと。東京の三鷹から埼玉に引っ越してきて、しばらくたった頃。周辺の名所を回ってみようということになった。「埼玉」という地名の発祥ともなった行田市の「さきたま古墳群」を見た後に、忍城(おしじょう)に足を延ばした。
忍城は戦国時代に、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、「関白」の威厳をかけて大軍を動員。壮絶な水攻めを行ったが、最後まで落ちなかった名城で、別名「浮き城」ともいわれる。

その近くを散策中、たまたま「ゼリーフライ、あります」という小さな看板を見つけた。

「へえー、あのお菓子のゼリーをフライにするなんて、何というギャグ感覚だろう。でもまあ、アイスクリームの天ぷらだってあるんだから、ゼリーのフライがあってもいい
その程度の感覚で、その小さな店にふらっと入ってみた。

わざと中身を聞かないで、一体どんなものが出てくるのか、小さく楽しみにしていると、「はい、ゼリーです」。出てきたのは、さつま揚げだった。いや、さつま揚げのようなものに見えた。恐る恐る口にすると、お世辞にもうまいとは言えない。ソースがかかっていて、何だか、その辺のスーパーで買ってきたさつま揚げを食べているような気分だった。

「これって、本当にゼリーフライですか?」
「ええ、皆さん誤解するんですけど、ゼリーというのは銭が訛ったものなんですよ。銭の形をした、まあコロッケみたいなものなんです。行田では昔からオヤツとして食べているんですよ」
店のハゲ親父が不機嫌そうに説明してくれた。

そのゼリーフライが突然のようにメディアに取り上げられるようになったのは、ここ5、6年ほどのことではないか。B級グルメブームの波に乗って、その奇妙な名前と実物の落差が面白すぎることもきっかけになったと思う。「秘密のケンミンshow」のようなバラエティー番組でも究極のイジられネタになる。


しかし、今ベストセラーにもなった「のぼうの城」の映画化で、行田は盛り上がっている。忍城は彦作村長の好きな城の一つで、最後まで武士としての意地を通した成田氏長も村長は好きだった。

久しぶりにその忍城に行くついでに、もう一度、あのゼリーフライを味わってみたい。あのまずい思い出しかないゼリーフライを「ウマズイめんくい村」の村長として確認する必要がある。
何事もそうだが、それは一度レッテルを張られると、そのイメージのまま、世界が閉じてしまう。そのことを痛感している彦作村長の「再確認作業」と言ってもよかった。

今回は店選びに時間をかけた。何せゼリーフライを売っている店は市内に23軒もある。紛らわしいことに行田には、「フライ」(お好み焼きと似ている)という名物もあり、これはゼリーフライとはまったく違う料理なのである。

街の人に聞いてみるのが一番手っ取り早い。
「かねつき堂がまあ一番好きだねえ。あそこは全部きちんと手作りでやってる。だから、ひと味違うよ」
おばさん二人組の言葉で即決。


         ゼリーフライ① 


かき氷や焼きそば、うどんなどのメニューにまじって、フライとともに「ゼリーフライ」の6文字がそこだけ光っているようだった。1人前(2個200円)を注文。気さくな女将がゼリーフライの由来を教えてくれた。

「ゼリーというのは銭が訛ったものというのはご存じでしょう。問題はフライですけど、揚げるという意味ではないんです。行田は江戸の昔から足袋の産地ですけど、その素材の布から来ている。布が来る。「布来」というわけです。それと、豊かになるという意味も込めて富来とも言われています。それで、ゼリーフライとなってしまったんです」

聞いてみると、受け狙いというよりも、地元の切実な意味がこもっていたのである。注文してから作るので、待ち時間は15分ほどかかった。豆腐のおからが約8~9割、それにジャガイモ1割。さらにタマネギとニンジンを細かく刻んで混ぜ合わせ練り合わせ、そのままパン粉などは付けずに油で揚げていく。その上に特製ソースをかけて出来上がり。

大きなコロッケのようなゼリーフライが2個、皿に盛られてやってきた。こんがり色がうまそうである。以前食べたものは薄いさつま揚げのようだったが、印象が全然違った。箸を入れると、ざっくりと中から、黄金色の具が。一瞬、いい匂いとともに湯気が立ち上る。


         ゼリーフライ② 


口に入れると、もちもちとしたポテトコロッケのような感触が特製ソースとともに、ジュワジュワと広がってくる。う、うまい。20年前に食べたあの「まずいゼリーフライ」ではない。おからがほとんどなのに、豆腐臭さがない。鮮度がいいのだろう。

偏見とレッテルがいかに判断の間違いを犯しているか、彦作村長は「ゼリーフライ」に教えてもらった気がした。



本日の大金言。

人は名前と外見と肩書きなどで、その人を判断する。ゼリーフライは身を持ってその間違いを教えてくれる。

汗の復権を!これぞバブル以前の冷やし中華と餃子

「 冷やし中華」についてはこれまで何度か書いたが、その起源や地域性についても諸説あり、その後の日本社会の大きな変化によって、ラーメン界における真夏の正妻から真夏の愛人へとフェードアウトしていったように思う。何より、彦作村長自身が、昔ほど冷やし中華を食べなくなってしまったからだ。

気が付くと、大勝軒・山岸一雄が発案した「つけ麺」に正妻の座を奪われ、ソバ、うどん、冷製パスタなど麵界のスターもあちらこちらで花火を打ち上げ、いつしか「冷やし中華」は高度成長期のあの輝きを失っていったように思う。1985年のプラザ合意が引き金となって発生したバブルによって、日本人は身の程を忘れて踊りまくってしまい、その後も汗水を流さずにマネーを稼ごうとすることを、「お金儲けのどこが悪い」という一種の開き直りで、奇妙なヒーローを次々と作り出してしまった。

バレなきゃ法律を破っても構わない。汗を流さずにいかにお金を稼ぐか。何、たとえバレテしまっても、土下座して数秒だけ神妙な顔をしてればいい。彦作村長はこうした人間の性(さが)を否定するつもりはない。否定しようとしても否定しきれないということを経験上知っているからだ。

冷やし中華は、バブル以前の「汗の時代」のヒーローであり、汗の価値が軽くなってくるにつれて、輝きを失っていった。そう思ってしまう。もちろん、そこにはいささかの酸っぱい自戒も込められている。

さて、群馬県みどり市を散策中に、彦作村長は、「龍正」という「純手打ち」を看板に掲げるラーメン屋に入った。ここに入るのは5、6年ぶり。佐野ラーメンと似ているようで、どこか違う。しかし、しょう油ベースのあっさり系の真面目な手づくりラーメンという雰囲気が好きだった。ここは餃子も実にうまい。

異常猛暑が彦作村長を目覚めさせた。そうだ、餃子がいい。それと今回はラーメンではなく冷やし中華だ! 村長の決断は早かった。

         みどり市・龍正② 

バブルがはじけ、失われた10年、いや20年。そこに3.11が追い打ちをかけて、戦後築き上げてきた日本社会が根底から崩れ、行き先も見えないまま漂流し始めているというのに、いまだ頭のどこかに、バブルの夢が残滓として残っている。

冷やし中華の復権こそが、日本から失われつつある汗の復権につながるのではないだろうか? よく考えれば、おかしな理屈だが、村長は自分でも認識しているように「バカの3乗」の頭をフル回転させて、そう考えたのだった。かつてジャズピアニストの山下洋輔さんが1970年代に作った「全日本冷やし中華愛好会」の復権が今こそ必要ではないのか?

「冷やし中華そば」(750円)と餃子(6個入り300円)を注文。待つこと15分ほど。来た来た。この店で冷やし中華を食べるのは初めてである。見た瞬間、どこか懐かしい佇まい。キュウリ、細切り卵焼き、トマト、チャーシューの細切り、コーン、それに湯をくぐらせたもやしの存在。紅ショウガも「私が正妻よ」然と自己主張している。和辛しも端っこで黄色い主張を忘れない。昔から関東地方にある定番の「冷やし中華そば」がそこにはあった。ぜいたくを言わせてもらえば、ここにナルトと細切りハムがあれば、完ぺきなのだが・・・。

ひと口で、「汗の昭和」がよみがえってきた。甘酢ダレがまさに甘酢ダレなのである。ところてんにかけたような酢しょう油に砂糖が溶け込んでいて、それが愚直なほどに伝わってくる。計算された隠し味のような世界は見当たらない。手打ち縮れ麺のつるりとした歯ごたえとうまく絡み合う。

これだこれだ。今はやりのラーメン本には多分出てこないだろう、汗をかいたものにしか味わえない味を堪能する。さらに餃子である。見た目はイマイチだが、外側がパリッとしていて中は実にジューシー。このもちもち感は好感が持てる。

        みどり市・龍正① 

彦作村長は、関東のローカルシティにこんな店が息づいていることに敬意を表したくなった。永田町の政治屋や霞が関のお役人、そして金融関係のエリートたちに、この冷やし中華と餃子を「へーい、お待ちぃー」と出前したくなったが、すぐに思いとどまった。それは「龍正」と「汗」に失礼ではないかと思い直したからだった。



本日の大金言。

酢の実力を忘れてはいけない。酸っぱいは成功の素になる可能性もあるのだ。
プロフィール

赤羽彦作村長

Author:赤羽彦作村長
あの!エンターテインメント新聞で記者、デスク、編集プロデューサーとして活躍。思うところあって、原発で揺れるヤポネシアを辺境から見つめ直すべく、イカダを組み、オンボロ旗を揚げ、組織を脱出。荒海に乗り出す。「B級うまいものの宝島」を目指して、櫂をガタガタと漕ぎ出すことにした。一か八か泥船となるか、間違って宝船となるか?
特に麺類と和菓子にはうるさい。「舌の上から斜めに世界を見る」などとほざいている。はっきり言ってバカの3乗である。年齢不詳。乙女座、AB型。村民を募集している。

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